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麗しき楔

この一世に、なるべく多くの重たい楔を打ち込みたいと願う。
できる限り深く。できる限り強く。

楔(くさび)とは、過去と今、そして未来の自分が同じ人間であることを克明にこの身体に教え込むための贈り物だ。

この地球という広い舞台にねじ込まれた楔に、前触れもなくもう一度出会う度、人はきっと何かの記憶を思い起こすはずだ。

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現世のあれこれにもすっかりと慣れて、鉛の塊のように息を潜めて鼓動していた心臓が、もう一度大きく血液を吐き出していく。

一度触れてしまったならば、胸を突かれるような衝撃が身体全体を硬直させる。

10代の頃盛られた毒に、再び痺れていく心を震える腕で抱き留めていく。

口から零れる湿った吐息が、透明な10月の空気を少しだけ汚して。

酸素不足の乾いた青空に、二酸化炭素混じりのさよならを。

空気が揺れる。わたしも揺れている。
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あの子の好きだったむらさき。
あの人の好きだった女優さん。
あの子の好きだったアイドル。
あの人が許してくれたわたし。
あの人が許せなかったわたし。
あの子が笑っていた教室の片隅。

遅刻してきたあの人の赤い頬。
免罪符には決まってリンゴジュースだった。
あの時、本屋で流れていたクリスマスソング。
駅のホームに2人並んだ。
気恥ずかしさに、離れて並んだ。

夏祭りの提灯の下。左右に揺れていた2人の影法師。
軽い口約束を信じて、来ない2人を待っているカレー屋。
2人で見るはずだった口コミ低評価の映画。
いつでも撮れると思って、なんとなく撮らずにいた写真。

ここには何もない。私の手元には何もない。
形に残る何かがあったとして、そこには何の意味もない。
けれど。
私と思い出と、確かにそこにいた誰か。あの子。あの人。あの先生。
それを思い出させる、物質。季節。音。風。そして匂い。

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甘い甘い砂糖菓子を食べるとき。
苦い苦いリキュールのチョコレートに目を丸くするとき。

かつてはなんともなかったはずの全てが、遅効性の毒となって、時々チクリと全身を締め付けながら、今も淡々とわたしの身体をめぐっている。
その度に、私を生きていると自覚する。

なんでもなかった日々が、もう手に入らないと知って泣いたとき。
隣にいたはずの誰かの心が、とんでもなく遠くに思える日。
変わりたくないと願っていたあの頃を、気付けば過去にしていたことに気付いた日。
やわらかなゼリーのように、頼りがいのない自分の心が、濁っていくことに怯えるとき。

楔が教えてくれる。
不安定にも生きてきた日々が教えてくれる。
過去の心の揺らぎを、想いを、意志を。

甘美な毒は癖になるものだ。
この世に免疫をつけることを、麗しき楔は許さない。

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