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コロナ禍において大切にしたい「個人の固有性」とは

 集団と個人。個人が寄り集まれば、集団になる。早朝、駅の改札から溢れ出してくる集団を俯瞰して見れば、それは名も知らぬ他者の集まりです。テレビカメラが遠巻きに映し出すのは、スーツを着て会社に向かう人たちでごった返す朝。

 スクランブル交差点ですれ違った、名も知らない誰かは、あなたにとっては誰でもよかった。代替可能な他者の1人でしょう。それはあなたがその人のことを知らないからです。特別な関わりを築いていないから。お互いを認識していないから。

 けれど、集団がそれぞれ全く違う個人で構成されていることに意識を向けると?そこには、誰かの母がいて父がいて、子がいることに気づくでしょう。それは目には見えないことだけれど、想像することはできます。自分のことを思うように、他者を思うことで。

 彼らは多様な背景を抱え、異なる家庭環境で育ち、異なる性格で異なる悩みを持ち、異なる場所へ向かって交差点を歩いて行く。もちろんそれぞれの歩幅で。彼らは決して代替可能な人ではありません。数字でひとくくりにしてしまったら見えないことです。コロナ禍において、感染者数、重傷者数、死亡者数と、毎日のように淡々と報道されていきます。でもその数字は、たくさんの1人が集まった数です。それぞれが全く違う1人です。そして、その数以上に、悲しみに苛まれたり苦しみに心をむしばまれている人がきっといるのです。それらもまた、別々の1人が、別々の場所で、それぞれの心で辛い思いをしているのです。

 あなたの家族、友人、恋人は代替可能でしょうか。違いますよね。たった1人の、かけがえのない存在です。だから大切にする。代わりがいないから。その人でなければダメだから。心に穴が空いてしまうから。

 それと同様に、直接見ることはできなくても、ただすれ違ったその通行人Aにも、あなたと同じように家族がいて友人がいて恋人がいて、その人はたった1人の存在だと言うことを、忘れないで欲しいと思います。あなたにとって関わりのないその人にも、その人だけの世界があるということを。私も,名も知らない誰かの心をいたわれる人でありたいと思っています。情報が氾濫し、混沌としている無機質なデータ社会のなかでも、社会に流れている血液が凍ってしまわないためにそれは大切なことだと思います。誰かに優しくされたことで、人は優しくなれるそうだから。思いやる気持ちは伝播するのではないでしょうか。

 地球にはたくさんの人がいて、地球の裏側の人とは一生すれ違うこともないかもしれない。みんな、それぞれの世界でそれぞれの人生を生きている。けれど、みんな自分と同じなんだということを、覚えていたいと強く思います。

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