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「ゴーン・ガール」小説と映画の比較ーなぜ映画では「女って怖い」というコメントが多かったのか?

ギリアン・フリンの小説「ゴーン・ガール」は非常にスリリングかつ人間関係や心理を丹念に描いたサスペンスだ。2014年にはデイヴィット・フィンチャー監督で映画化され、こちらも高い評価を受けている。小説と映画を比較しながら「ゴーン・ガール」の面白さについて私なりに書いてみた。

あらすじ

エイミー・ダンはある日突然失踪した。大量の血痕と「ヒント」を残して…
警察は夫のニック・ダンを容疑者として捜査を進める。明らかになっていく二人の過去とヒントの答え。エイミーはどこへ消えたのか、ニックはエイミーを殺したのか?二人の声が交錯するミステリー。

視点

「ゴーン・ガール」では「視点」が重要な役割を占めている。夫のニック、妻のエイミーそれぞれの視点から物語が語られるのだ。エイミーが失踪した後の日々がニックの目線で語られ、エイミーは二人の出会いから失踪する直前までの日々を日記に残している。完全に二人の主観で話が進むのだが、これが本当に面白い。まず二人の主張が食い違っているため、何が本当なのか分からない。どちらの話を読むかでこの夫婦の印象は全く変わってくる。さらには、二人が「本当のこと」を言っているかも読者には分からない。記憶は曖昧なものだし、どちらかが(どちらも?)嘘をついていることも十分あり得る。嘘までいかなくとも、話を自分の都合の良いように変えているかもしれない。あるいは、ある面から見れば当人にとっては真実なのかもしれない。後半、ある事実が明かされ謎は一応解けるが、それでもどこまでが本当のことなのかなど知りようがないのだ。語り方次第で話は全く違う印象を与える。そのことをとても上手く利用した小説だ。

また、口に出す言葉と本音の違いも面白い。「」の中に書かれたセリフの隣に、ぞっとするような胸の内が述べられており鳥肌が立つ。ニックもエイミーもとんでもない言葉を内に秘めているのだ。

このように、小説はそれぞれの「主観」で進んでいくところが面白かったのだが、映画ではここがやや変わってしまう。映画もニックの話、エイミーの日記が交互に描かれるのだが小説よりは客観的になる。映画の感想で、「女って怖い」というものが多かったのはそのせいではないかと思われる。どうもエイミーだけが悪役のように感じられるのだ。しかし本当に「怖い」のは二人の気持ちのずれや人の心の分からなさだ。エイミーは確かに恐ろしいけれど、「女って怖い」という感想に着地してしまうのはもったいないと思う。小説でも「異常な人物」ではなく、ともすれば感情移入してしまいそうなバランスで描かれている。もちろん映画は小説のスリリングな部分を上手く再現しているし、映像はかなり迫力がある。怖さをかきたてる音楽も良いし、結末を知らないで観たらかなりどきどきするだろう。だからこそ、「女(/妻)が怖い」という話で終わらせるには惜しい。映画を観た人にはぜひ小説も読んでほしい。

虚構

 もう一つの面白さは、話が進むにつれ二人の「作られた姿」がぼろぼろとはがれ落ちていくところだ。これは小説にも映画にも共通している。ニックは大学卒業後すぐニューヨークでライターの仕事を得ており、それを誇りに思っている。エイミーは有名な作家の両親のもとで育った。両親がエイミーをモデルに出版した児童書「アメイジング・エイミー」は大ヒットし、幼いころからセレブとして暮らしている。そんな二人はまるで「理想のカップル」だ。特に出会いのシーン。パーティーで意気投合する二人のセリフは賢くユーモアに溢れている。才色兼備なカップルは互いを自慢に思い、時には他のカップルを見下しながら付き合い続ける。やがて結婚するがしかし徐々に「完璧」さは崩れていく。虚構を作り続けた二人の関係は複雑化しながら歪な形を保ち続ける。その先に迎えるラストは絶望的なものだ。ここまで書くのか、と小説の終盤にはぞくりとしたし、映画のラストシーンも絶妙である。


二人がいかにして「完璧な夫婦」を演じていたのか。哀しくなるくらい冷静に現実的に描き切った「ゴーン・ガール」は優れたミステリーであり、心理に深く切り込んだ作品だ。読み終えたとき、これほど「心」に迫った作品はないのではないかと思った。映画はグロテスクなシーンも含んでいるが(小説より格段にグロテスク。悪意すら感じた)、両方観て比べてみてほしい。



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