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いつだってはじめては(一)

 全体の構造を把握するのが大変なほどの広さを有する学校の内部、私は一人で歩いている。何か目的があるような足取りだけど、さっきから同じところをぐるぐると回っている気がする。エスカレーターで上の階まで行ったかと思うと、また下の階へ。
 大きな窓から差し込む光が柔らかい。ほんのりと、校内を照らし出している。綺麗な情景だなとうっとりしていると、ふいに自分の右手に確かな感触を覚える。誰かと手を絡ませている。恋人同士のような繋ぎ方をして。腕の先を目の端で捉えようとすると、どうしてか顔がよく見えない。でも、体つきから、掌の厚さから、男の人だということだけは分かる。
 私たちは逃げた。途方もない何かから。校内を、周囲の目も憚らずに走って逃げた。腋にじっとりと嫌な汗をかいていた。今この瞬間、私は悲劇のヒロイン。
 視界が開けた。広い場所に出る。あちこちに談笑する若者がいた。やっぱり、ここは広くて大きな私の通う学校だ。空が見える。さっきからの柔らかい光は嘘ではなかったのだ。
 男の腕に促されるようにして、あるいは自らの意思で、私たちは建物と建物の間の細い道に滑り込む。それでも、まだ追っ手をまけていない。よく見ると、建物の壁面にはいくつもの穴が穿たれ、人が入れるようになっている。私は咄嗟に潜り込んだ。その瞬間、それぞれの意思が反したのだろうか、繋がれていた手が離れる。彼だけは、そのまま走って奥の湖へ向かう。
 私は急いでそこにあった毛布を拾い、全身を覆った。息を殺して私を不安にする恐怖が通過するのを待つ。
 声がした。「こっちだ!」気づかれてしまっただろうか。続けて、「ここだな」という話し声がすぐ近くでする。一巻の終わりだと思ったと同時に、細長い棒状のもので突かれる――。

 そこで目を覚ました。少しぼんやりしてしまってから、ここが私の家で、ちゃんとベッドの上だと理解する。
「夢か……」
 リアリティがあって、細部まで記憶していられる不思議な夢だった。手の感触も思い出せる。あれは、誰だったのだろう。
 しばらく夢見心地だった。少しずつ精神が現実世界に帰ってくる。
 汗が気持ち悪くて起き上がった。携帯を手に取って、着信履歴を確認する。そのほとんどを占めている名前は「東海林栞」。
『入学式、中止になっちゃったんだね。』
 彼女の言葉のとおりだった。それでも、私たちの大学生活は始まる。
 数週間前に、東北地方を中心とした未曽有の大震災が発生した。ここ東京でも被害があり、また、余震の恐れがあるため、大学の入学式が自粛されることになってしまった。大学の入学式は人生で一度きりしかないのに、仕方のないこととはいえ、やるせない。
 授業の開始も一か月近く遅らすため、春休みが引き伸ばされた。緊張していた心はすっかり萎えてしまう。春から大学生だ、と息巻いていた私の心は、初夏から大学生だ、に変わる。
 栞はどうするのだろう。急に与えられたたくさんの時間。でも、きっと読みたい本が抱えきれないほどあるから、あっという間に潰せてしまうのだろうな。
 私はどうしよう。私も読書が好きだから、それだけで日々を送ったって悪いとは感じない。むしろ、至福のひととき。とはいえ。
「アルバイトでもしてみようかな……」

 栞とは長い付き合いになる。中学生の頃に出会ったから、幼馴染というほどのものではない。親友、と呼ぶには十分だろう。
 栞は引っ込み思案な性格だった。自分から誰かに話しかけられなくて、いつも教室の隅で俯いていた。
 私もそんなに社交的な人間ではないけれど、それなりに友達はいて、ちゃんと学生生活を満喫できていた。だから、栞がどうしてあんなに怯えたようにしているのか理解できなかった。特に注意を払うこともなく、たまに腰まで伸びた黒髪を目にし、その存在を思い出す程度だった。
 私たちの関係が変わったきっかけは本だった。ジャンルは違ったけど、互いに本を読むことを心底愛していた。でも、振り返ってみれば、好きなジャンルが違ったからこそ、私たちはそれぞれの価値観に惹かれたのかもしれない。すぐに共感するのではなく、共有していく過程が私たちを友達にしていく時間だった。
 ――本、好きなの?
 学校の図書室で、今までに見たことのない明るい表情をして本棚と向かい合っている姿を見かけ、つい声をかけてしまった。栞はびっくりしたように振り向いて、目を見開いた。

その目は、私が腕に抱えたたくさんの単行本を認めると、和らいだ。そんな風に、笑えるのね。
 ――うん。
 話してみれば、栞は暗い子ではなかった。おしゃべりなわけじゃないけど、純粋で、優しい心の持ち主だった。本が好きな子なんてほかにもいる。その中でも栞といつも一緒にいる関係になれたのは、彼女の内面に強い憧れを覚えていたからだろう。眩しいくらい、いい子。親友になれたのは自然な成り行きだったのだ。
 それまで仲よくしていた人たちとは、少し距離ができてしまった。栞との距離が急激に縮まったために。それでよかったのかどうかなんて、考えもしない。それくらい、見えない誰かに導かれた運命に思えたから。
 そこに、少ししてから桜が加わった。

          *

 これから、入学式。さっきから緊張でどうにかなってしまいそうだった。まだ見慣れない中学校の教室、その片隅で、わたしはただひたすら俯いているしかなかった。周囲の会話の内容がまったく頭に入ってこない。ただ、騒がしく響くだけ。
 昔からこうだった。大人しくて、臆病で、人見知り。話しかけなきゃ何も始まらない、そう分かってはいても、嫌な反応が返ってきたらと少しでも想像すると、私は動けなくなる。
 いてもいなくてもいい存在。
 幼いながらにそんな悲しい形容を自らに与えていた。現実をなかなか直視できない子どもは、想像の部屋に閉じこもってしまう。誰かから手を差し伸べられるまで。
 講堂へ移動になっても、わたしは誰かと目を合わすことすらせずに、廊下に出た。出席番号順に整列するとき、男子の一人とぶつかりそうになって、慌ててよけた。ぶつからなくてよかったと、安堵する。整列が済んでから、「これから講堂まで移動するので、静かにするように」と担任の先生に言われ、周囲の高揚は一気に落ち着く。ようやく騒がしくなくなったと、再び安堵する。
 終始、こんな調子だった。
 本が読みたい。今、わたしは本の世界に浸りたくてしょうがない。わたしの好きな、わたしを決して裏切らない世界。逃げ込める何かがあるのはまだいいことだ。それまで堪えよう。そう、胸のうちで唱えていた。

 入学式が終わると、お昼前には下校になった。きっと、みんなは新しい友達ができて浮かれているのだろうな。せめて、小学校からの友達がいてくれたらよかったのに。タイミングの悪いことに、我が家はわたしの小学校卒業と同時に引っ越してしまったため、気の置けない仲間は一人もいない。
 ぐるぐる、ぐるぐる考える。大きくしすぎた不安と、一方的な希望。そういえば今日、先生から名前を呼ばれて返事をした以外に口を開く機会がなかった。そう気づいたときには帰りの準備が完了して、わたしは幽霊みたいな足取りで教室から抜け出す。安心で、硬直していた気持ちが和らぐのが情けない。だけども、こういう性格なのだから仕方ない。
 誰にともなくする言い訳。
 校門を出ると、閑静な住宅街をとぼとぼと歩いていく。早く帰って本の続きが読みたい。一方で、あんまり早く帰ってしまうと、友達ができていないことを心配されるかもしれない。まだ初日だと笑い飛ばすことはできる。でも、気遣わしげに訊かれたら、わたしはダメな子なのではないか、と暗い闇がたちこめる。笑っても晴れない闇。折り合いのつけられない思い。
 にゃあ、と鳴き声がした。声のした方に首をめぐらすと、塀の上に白と茶の混じった猫がいた。わたしと目が合うと、「まったく、楽しくないことばかり考えているな」と嘲るように欠伸を一つした。ほんのりピンクの舌が覗く。
 わたしは立ち止まって、話しかけた。
「そうは言っても、猫さん。人間社会はとても難しいところなのよ」
 すると、答えるように、にゃあ、と鳴く。たぶん、「難しいというけど、あなた以外は上手くやっているじゃないか」とか言っているのだろう。むむむ、正論だ。
 猫は人の話している言葉が分かるのだ。最近読んだ『吾輩は猫である』という小説でそれを知った。そのくせ猫たちは、にゃあ、としか言わないけれど。
「これから、きっと友達はできるわ。学校はまだ始まってすぐなのだから」
 また、鳴く。察するに、「自分から話しかけなきゃ、友達ってもんはできないと思うけど」といったところだろうか。その通りだ。それくらい、分かっているつもり。どうしたらいいかは明白。あとは、一歩踏み出すこと。

 これ以上やりとりを交わしても負けるばかりだから、「さようなら」と別れを告げた。また、帰り道を辿りだす。背中に「ごきげんよう、さようなら」という鳴き声が届く。何とも優雅な猫だ。裕福な家庭で飼われているのかな。
 明日は分からないけれど、これから何度も会えるだろう。そんな気がした。

 憂鬱な日々が続いた。学校へ行っても、身を潜めるようにして大人しく授業を受けるだけ。給食のとき、掃除のときなど、必要に迫られて言葉を交わす機会はぽつぽつと訪れたものの、未だに友達と呼べるような存在はいない。休み時間はすべて本を読むことに充てた。
 塞ぎ込んだ心を癒してくれたのは通学路の桜だった。学校から家までの中途には、美しい桜並木がある。時間を忘れて、ぼんやりと見惚れてしまうこともしばしば。そうそう、猫にも会って、よく話を聞いてもらっている。
 放課後。クラスのみんなは部活動に励んでいる時間、わたしは図書室に足を向ける。図書室はオアシスだ。棚に並べられた本たちを見ると、やっとまともに呼吸ができたような心地になる。だから結局、それなりに毎日に満足してしまって、帰る頃には登校するときの重い足取りを忘れる。
 こんな日常が繰り返されているうちに中学校生活が終わってしまうのだろうか。ふと立ち止まる瞬間に、思う。はたから見たら読書だけして帰る、起伏のない日常に映るのかもしれない。読んでいる内容は日々変化しているのだから、その世界に浸っているわたしは起伏がないなんて感じていないけれど。
「本、好きなの?」
 誰かに話しかけられることが久しぶりで、わたしはほんとうにびっくりした。反射的に声の主を確認すると、女の子が立っていた。目が大きくて、肌が白い。どこか大人っぽい雰囲気があって、とてもかわいい子だった。
 視線を少し下げると、彼女は数冊の本を抱えていた。そして、質問されていたことを思い出す。彼女も本が好きなのかな。
「うん」
 ちゃんと答えられた。自然と笑顔になれていた。図書室だったからか、本のことについて尋ねられたからか。
「どんな本を読むの?」

「わたしは、ファンタジーとか歴史ものとか」
 一呼吸おいてから、同じ質問をした。「あなたは?」
「わたしは、最近はミステリーが好きかな。いろいろ読むよ」
「ミステリー。『そして誰もいなくなった』は読んだ?」
 彼女は頷く。
「読んだよ。最後はびっくりさせられた」
「わたしも。それと、ちょっと怖かったかも」
 互いに笑みを交わす。今まで恐れていた自分を不思議に思うくらい、何ら弊害もなく会話できている。猫に報告してあげなければ。
「確か、同じクラスだったよね。わたしは田島京」
 そうだったのか。周りを見ていなかったから、あんまりクラスの人の顔を憶えていなかった。
「わたしは、東海林栞」
 よろしくね、とどちらからともなく言い添える。
 図書室での出会い。これが、京とはじめて話した日のことだった。
 そして、桜がもう散ってしまった頃になって、わたしは桜とも友達になった。

          *

 起きてからしばらくは読書をしていた。スタンダールの『赤と黒』。引き込まれるままに読み進めていたら、すっかりお昼時になっていた。少し、出かけようかしら。だが、その前に調べておきたいことがある。
 自分のノートパソコンを開いて、インターネットで検索を始めた。いくつか、思いつく書店名を打ち込んでいく。
 アルバイトをするなら絶対に書店がいいと思っていた。働いた経験はないものの、本と関わるものだったら向上心を持って取り組めるだろうと踏んでいる。薄給だとか、意外と体力を使うとかいう噂も耳にするけれど、ほかのバイト先でつらい思いをするよりもずっとマシ。
 調べた結果、アルバイトの募集をしているところはたくさんあった。ちょうど新年度に入って、入れ替わりの時期でもあるからだろう。あとは、場所や条件を比べて決めるだけ。

勤務時間が午前中から昼過ぎまでだと、学業との両立が図れない。あんまり家や大学から遠い場所では苦労する。給料は大差ないから(確かに飲食店などと比較すると劣る)、それほど気にしなかった。
 検討した結果、大学から二駅のところにある大型書店に応募してみることに決めた。何度か足を運んだこともあるし、一日の勤務時間がそんなに長くない。はじめてのバイトとしてはこれ以上なさそうだ。まあ、まだ働かせてもらえると分かったわけではないけれど。

 鏡に映る自分の姿を見つめる。肩にかかるくらいの黒髪、結ばないで下していることが多い。中学生のときからずっとこの髪型だ。せっかく大学生になるのだから、明るい色に染めたり、巻いてみたりしたいと考えなくはない。でも、そのくらい誰だって考えるだろうから、ほかの人とかぶってしまうのは嫌だな、と思うと決断を鈍らせる。詰まるところ、慣れ親しんだこの見た目が一番。
 栞は出会った頃からずっと、腰まで伸びた長い髪を三つ編みにしていた。雨の日も風の日も、毎日。小さいうちは母親に編んでもらっていたそうだが、すぐに自分でやるようになったという。ほかの人と絶対にかぶらないその髪型は、大人しい彼女の存在感を主張していた。大学生になってもやめてほしくないし、彼女らしさを表す一端だと私は思っている。
 栞はたびたび私のことをかわいいと褒めてくれる。大人っぽいね、と言ってくれる。歯の浮いたようなお世辞は厭わしいものなのに、栞に限っては嫌な感じがしない。むしろ、素直に嬉しい。
 私は図書室で話したときから、彼女の透明感に驚いていた。肌が綺麗だとか、シミが一つもないだとか、そんな誰かに当てはめられる形容に留まるものではない。それは内側から輝きを発しているような。瞳がきらきらとしていて、じっと見つめられると気後れする。彼女を知れば知るほどに、その純粋さに羨ましさを覚えた。
 私たちを結びつける感情は強い。それは相手を好意的に捉えるものと、それから、羨望と。いろんな側面を有することで引力は確かになっていく。
 とはいえ、普段はこんな七面倒なことを考えて接してはいない。気が合うからずっと一緒にいるだけだ。それが友達というもの。
 さてと、洗面所から自分の部屋へ戻ろうとした刹那、ズボンのポケットに入れた携帯が震えた。着信、知らない番号だ。もしもし、とそっと出てみると、硬い男の人の声がした。

 履歴書を持参して店舗の方に来てほしい、ということだった。アルバイトの面接をするから。

 大学生になるに際してスーツを購入した。学生時代の制服と異なり、上下黒のそれは大人の象徴だった。早く着る機会が訪れないかと楽しみにしていた。本来、真っ先にその機会となり得たのは入学式だった。当然、すべての学生がスーツを着用して集結する。ところがその機会は潰えた。
 アルバイトの面接で着ていこうか迷った。特に服装の指定はされなかったが、なるべくフォーマルな格好を心掛けた方が印象も違うだろう。だけど……。
 なんとなく、栞に聞いてみることにした。携帯を取り出し、メールを送る。
『アルバイトの面接があるんだけど、スーツで行ったら変かな。私服でいいのだろうか。』
 送信が完了してから、少し待ってみたものの、掌の中の携帯はうんともすんとも言わない。栞はマメにメールをチェックする人ではないため、はじめから即座に返信があることを期待していなかった。
 ベッドに放り投げて、気長に待とうと自らを頷かせる。

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