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【短編小説】本物の星

「私がバカンスで北海道を選んだのは」
 ホテルのバーで、私は美しい青年に話し始めた。
「東京のせいだよ。渋谷のIT企業で営業をしてる。アメリカの既製品を真似たクズみたいなサービスに『ビジネスの必需品!』とラベルをつけて売りつけてる。そんな詐欺集団のメンバーは、ビジネス書しか読まないスカスカな連中。ろくでもない会社としょうもない人間がうじゃうじゃいる街にいると、自分が擦り切れていくのが分かるんだ……」

 青年はソファでくつろいだ姿勢を崩さず、ジントニックのグラスから唇を離した。かたちの良い唇と鼻。肌は白く、目ははっとするほど青い。金髪の巻き毛は、がっしりとした肩につくかつかないか。ルネサンスの絵画に登場しそうだ。
「渋谷? 東京のですか?」
 他にどこがある? 私は身体からアルコールが抜けていくのを感じた。正面に座る間抜けを見据え、名前を思い出そうと努めた。ユウリだ。

 ユウリに限らず、男は救いがたいほどバカな返答をして、相手を黙らせる瞬間がある。ここ北の果て、トマムでも例外ではない。ただ彼の端正な容姿が、私を場にとどまらせた。
「都会のタブーが何か分かる? 止まること。だからみんな必死でアピールする。資格を取った、出世した、メディアに取り上げられた。だから何? 一貫して発するメッセージは『私はバカです』」
「いますね。SNSの投稿が自慢ばっかりの人」
「そういう奴は、まずセックスしてないね」

 背後で老人がむせる音がした。振り向くと、六十過ぎの男性と目が合った。彼はダンディだった。ぴったりと身体にあったスーツ、短く切り揃えられたグレーの髪。年齢にしては珍しく、まともな外見をしている。目だけは異様に鋭かった。女性関係の荒波を乗り越えてきた者に授けられる目だ。
「新しい飲み物を取ってくるわね」
 車いすを引いていた女性が、ささやくように言った。四十歳近くのアジアンビューティー。艶のある黒髪と同色のロングドレスを翻し、バーカウンターへ去っていった。シャンプーの広告に使えそうだ。彼女はきっと家でトレーニングウェアなんて着ないだろう。大体の日本人は、ジムウェアが全く似合わない。しかし本人たちは、欧米人の真似をして格好良いと思っている。愚かなチームメンバーが浮かび、彼らを頭から追い出した。

 残されたダンディは、バーカウンターに置かれたジャムサンドをじっと見ていた。ハスカップという実のジャムだ。ブルーベリーのような形で、アイヌでは不老長寿の薬として知られていたという。その実をアジアンビューティは食べたのだろうか。ダンディも食べたかもしれない。ベッドで愛をささやくために。

「あの二人、お忍び旅行らしいですよ。ダブル不倫だとか」
 いたずらを打ち明けるかのように、ユウリが言った。私は頭の中を見透かされた気がして、そそくさとジントニックを飲み干した。席を立つと、彼は何か言いたげな目線をよこし、母性をくすぐってきた。アルコールで脳が軟化した男は危険だ。何をされるか分らない。だがシラフの女はもっと怖いと、この後で思い知ることになる。

 部屋に戻ると夫のいびきに出迎えられた。ただいま、現実。

 最奥にあるキングサイズのベッドでは、夫が息子と娘と川の字で寝ていた。彼らが熟睡していますように、と私は祈った。セックスをしたい気分ではなかった。四歳の息子から「水飲みたい」と、二歳の娘から「トイレに付いて来て」と起こされる夜勤もごめんだった。美人とまではいかないが、ホテルのバーで青年と飲める程度のルックスを持つ、女の余韻を味わっていたかった。

 かつて産院では二十四時間、ナースコールで看護師を呼びつけていた。退院後は自分が同じ境遇(ただし給与なし、感謝なし、交代なし)に置かれるなんて、誰が予想できただろう。

 私は疲れていた。ただでさえ日常にくたびれているのに、今朝のフライトにとどめを刺された。LCCは添乗員も乗り心地も「ほら見ろ。安い飛行機を選ぶからこうなるんだ」と言わんばかりだった。資本主義の本質。私たちは資本家ではない。サラリーマン夫婦だ。渋谷の2LDKの賃貸マンションで、慎ましく暮らしている。

「来てないな……」
 スマホでFacebookのメッセンジャーを開き、独り言をもらす。さもないとスマホを窓から放り投げかねなかった。

 かつてトーマス・フラーは言った。「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」。私は片目を閉じることに成功した。夫に何ひとつ期待しないことで、結婚生活を継続させた。しかし片方の目は退屈していた。人は暇になると、ろくなことをしない。その目は別の男を捉えた。つまり不倫していた。

 私は窓際にあるサイドベッドに寝転んだ。目を閉じ、相手の顔を思い浮かべようとした。大きな夢を諦めた後に漂う倦怠感をまとった、四十歳の男性だ。彼は夢と愛に裏切られ続けた。しかし心には炭のようにくすぶり続ける執念があった。三十歳の私には未だ到達できない境地だった。くたびれた笑顔と、たまに熱が宿る目。それらが不協和音のように合わさり、とてつもない色気を放っていた。
 彼の外見を詳細には思い出せない。とにかく慶応卒の銀行員ではある。そんな男はよほどの変態でない限り、二十代のうちに結婚という楔で打ち付けられている。お互い妻子持ち。ダブル不倫だった。
いつものように自分を慰めようとしたが、うまくいかなかった。ユウリの顔がちらつき、再びバーへ足を運んだ。

 ユウリは先程と同じソファでジントニックを飲んでいた。
「私も不倫してるんだ」
 正面に座るや否や話し出す私に、彼は驚いて目を上げた。
「Facebookメッセンジャーの秘密モードで連絡を取ってる。時間が経つと自動で消えるからね」
「ばれてひどいことになった人が、たくさんいたんでしょうね」
「犠牲なくして技術はうまれないよ」彼は肩をすくめた。

 九割の不倫はLINEから発覚する。夫が寝ている間に指紋認証でロック解除する妻がいる。隣に座る夫のやり取りを盗み見する妻がいる。日常で使うツールを浮気で使うべきではない。

「今や昭和生まれしかFacebookを見ない」私は言った。
「パッとしない投稿のはきだめ。見ているだけで、化石の洞窟に放り込まれた気分になる。あんなもので連絡を取る奴はいない。だから不倫にはうってつけなんだよ」
 彼はきれいな歯並びでオリーブを食べ、言った。
「こそこそする必要あります? 愛する気持ちは悪いものじゃない。冷血とか不感症の女より、よほど魅力的ですけど」
「でも、夫も子供もいるし」
「家庭は壊れてないんでしょ? 不倫で家族に優しくできるなら、良いじゃないですか」
 私が黙り、彼は笑った。天使のような笑みだ。偽りの天国へ堕落させる悪魔にも見えた。
「星でも観に行きますか?」

 ホテルの外は夜の帳が降りていた。九月初旬の冷えた夜。ぼってりとした生温い午後を裏切るかのように、理性がひとかけらだけ残されている。
「駐車場の横に、冬しか使わない宿泊棟があります。そこでの眺めは最高ですよ」
「悩みがどうでも良くなるくらい、なんて言わないでね」
「へえ?」
 私はこの手の文句がひどく嫌いだった。「サウナへ行こう。おいしいご飯を食べよう。いっぱい笑おう」。次にくるのは「悩みなんて吹き飛ぶよ」。まるで悩むことが良くないかのように思えてくる。悩みがない人間なんて、呆けているか死んでいるかのどちらかだというのに。彼らのようなおめでたい頭を持てたら、どんなに生きやすいだろう。

 到着したのは、バブルの名残を残した大型ホテルだった。スキー客用で、夏は閉じているらしい。彼は比較的きれいな部屋を見つけて入り、私はそれに続いた。
「北海道に来れば、彼のことを忘れられると思った」
 ベッドに腰掛け、他の男の話をする女。我ながらどうかと思っていると、隣で彼が座る気配がした。一応、聞いてくれはするようだ。
「でも、ここでもメッセージはできる。早く戻りたいとすら思う始末なんだよ」
「東京のせいですか?」
「あそこは毒々しい魔力を放ってる。自分が何者かになれそうな錯覚を起こさせる」
「ぜんぶ、東京のせいにしておけば良いんですよ」
 彼は私を押し倒した。ベッド横の窓からは、空から零れそうな星空が見えた。星がきれいな場所は、これを意味していたらしい
「自分の欲しいものが分からなくなるくらい、目がくらむ街なんでしょう」
 善悪ばかり学んできた。欲しいものが分らないまま。街の明かりは、空にある星を見えなくさせる。
「俺は分かりますよ。自分が今、欲しいもの」
 噛みつくようなキスは、ジントニックの味がした。

 異変に気がついたのは、隣のベッドが目に入った時だった。
「ねえ、誰かいる」
 彼は私から離れ、スマホのライトでベッドを照らした。そこには見覚えのある老人が横たわっていた。バーにいたダンディだった。

「死んでますね」彼は脈を取り、静かに言った。
「腕に注射器の跡があります。犯人はあの女性かもしれませんね。女性は抵抗されないように殺すから。睡眠薬で眠らせて、KSLでも打ったのかな」

「生と死……」
 私はつぶやいた。セックスしようとした横で、人が死んでいる。老人は不倫相手にも、私にも、ユウリにも見えた。私たちは死んでいるも同然なのかもしれない。夫や子供と違って。じゃあ、私の欲しいものは?

「警察、呼ぼうよ」私は短く言った。
 彼は黙って立ち上がり、カーテンを引いた。たちまち星空が見えなくなった。
「夜に星が見えるのは、周りが暗いから……」私は言った。
「昼間に星は見えない。でも、空には確かにあるんだよ」

 目に見えるものが信じられないなら、目をつぶれば良い―――

 私は不倫相手にメッセージを送った。決別には一分も要さなかった。共通の知人は多くない。仕事上の付き合いもない。もう二度と会うことはないだろう。これで、すっかりおしまいになるのだ。

 私は目を閉じた。夫と子供の寝顔が浮かんできた。彼らは冷え切った夜と心を、明るく照らしてくれた。

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