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異なる存在としての持ち味を生かす

松下幸之助 一日一話
12月11日 持ち味を生かす

家康は日本の歴史上最もすぐれた指導者の一人であり、その考え方なり、業績に学ぶべきものは多々ある。しかしだからと言って他の人が家康の通りにやったらうまくいくかというとそうではない。むしろ失敗する場合が多いと思う。と言うのは、家康のやり方は家康という人にしてはじめて成功するのであって、家康とはいろいろな意味で持ち味の違う別の人がやっても、それはうまくいかないものである。

人にはみなそれぞれに違った持ち味がある。一人として全く同じということはない。だから偉人のやり方をそのまま真似るというのでなく、それにヒントを得て自分の持ち味に合わせたあり方を生み出さねばならないと思う。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

松下翁はご自身の姿を叩き上げで出世した秀吉と重ねているところが少なからずありますので、豊臣を滅ぼし天下を統一した家康に対しては少し批判的な視点も感じますが、家康に対しては言葉を換え以下のようにも述べています。

 徳川家康という人は、ずいぶんえらい人であった。人によっては好ききらいもあるかもしれないが、ともかくも天下を安定させ、三百年の治世の基礎をきずいた。どこかにすぐれたところがあったにちがいない。だからこそ、徳川家康ブームといわれるほどに、その小説が読まれ、愛好されたのである。
 しかし、家康がえらいからといって、そのままこれをまねようとするのは、これはいささか見当ちがいである。家康なればこそあの道が歩めたのである。たとえ家康以上の人物があったとしても、まねる心だけではおそらく道を誤るであろう。
 ものをおぼえることは、まねることから始まる。こどもの歩みを見てもよくわかる。しかしウリのつるにナスはならない。柿の種をまけば柿がなり、梅の木には梅の花が咲く。
 人もまたみなちがう。柿のごとく梅のごとく、人それぞれに、人それぞれの特質があるのである。大事なことは、自分のその特質を、はっきり自覚認識していることである。
 その自主性がほしい。まねることは、その上に立ってのことであろう。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

「持ち味を生かす」上で必要となることは、大別すると「人はそれぞれが異なるという認識」と「知識を生かす知恵(智慧)」の2つが重要であると言えるのではないでしょうか。

先ず、一つ目の「人はそれぞれが異なるという認識」に関しては、日本人の多くに不足している認識であると言えます。これは日本の教育システムや教育環境に抜本的な問題があると言えます。具体的には、日本の教育では幼い頃から周りの人と自分を同じにすることが求められます。周りの人と異なった考え方や発言、行動などをすると枠に収まらない問題児として扱われてしまい、教師や親たちから周りの人と同じような考え方や発言、行動をするように改善を求められてしまいます。或いは、それらが異なることで周りの人たちからいじめられてしまったり、仲間外れにされてしまったりもします。

これは、日本の地理的要因に起因したデメリットの一つであるとも考えられます。日本は島国であるが故に、自分たちと異なる文化や風習を持つ外敵と接する機会が極めて少なく、独自の文化や風習が守れながら形成発展されてきました。更には、島の中で暮らしていくには、周りの人と異なった考え方や発言、行動をせずに、周りの人と協調することを重んじる存在の方が都合がよかったのだと言えます。周りの人と協調することを重んじるとは、具体的には、「物事を深く考えず、あまり自己主張せず、力が弱くなった年配者の言うことに従順であり、代替がききやすく、問題を起こさない存在」のことです。

他方で、国境が陸続きのヨーロッパなどでは常に外敵が攻めてくる状況下にありますので、外敵に負けない文化や風習づくりが必然的に求められてきました。外敵に負けないためには、常に強くなり続けるためのイノベーションが必要でした。そのためには、常に変化やイノベーションを起こせる異質な存在が必要になります。変化やイノベーションというものは、同質の存在がいくら集まっても起こせません。異質な存在と同質の存在が異なれば異なるほど、或いは距離があれば距離があるほど起こしやすくなります。例えば、フランス人にとっては国境が接するドイツ人やスペイン人よりも、異質な存在となるアジアの片隅で暮らす日本人のような存在が加わることでイノベーションを起こしやすくなり、ドイツ人やスペイン人に負けない強さを生み出す可能性が高いということです。

同質化を嫌うヨーロッパなどでは、幼少期から、自分と周りの人は違うということを認識し理解するための教育がなされます。周りの人と同じであるのが当然ではなく、異なることが当然である教育がなされるということです。自分が他人と同じであるならば、他人が存在していれば自分がそこに存在する価値はないに等しいとも言え、自分が存在としての体を為すためには、他人と異なった存在であることが求められるのだとも言えます。

例えば、私の質問に対して、あなたの答えと、Aさんの答えが同じであるならば、私にとっては、あなたとAさんの両方の存在は必要なくどちらかがいてくれれば良い訳です。仮に、私がAさんを選んだならば、あなたは不要になります。

現状においては、島国日本においても急激なグローバル化が進んだことにより、かつてのように孤立した島国としては存在し得なくなり、地球という陸続きの一部になっているのだという認識が必要であると言えます。地球の一部としての日本においては、「人はそれぞれが異なるという認識」をベースとした教育による文化や風習の形成発展が不可欠になっているのだと言えます。それらを基盤にした変化やイノベーションによって、世界と互角に戦える強さを生み出すことができるのだと言えます。

視点を国レベルから組織レベルに移行した際も同様であり、経営学における組織論的観点からは、ピーター・ドラッカーが「自己探求の時代」(1997)にて次のように述べています。

「他の人々もまた自分と同じように人間である、という事実を受け入れることである。だれもが人として行動する。すなわち、それぞれが、それぞれの強みを持ち、それぞれの仕事の仕方を持ち、それぞれの価値観を持つ。したがって成果を上げるためには、共に働く人の強み、仕事の仕方、価値観を知らなければならない。」
(ピーター・ドラッカー著「自己探求の時代」より)

つまり、ドラッカーは共に組織で働く人たちの人としての尊厳(異なる価値観を持つ存在としての尊厳)を守りつつ、異なる人たちを理解し、その強み、仕事の仕方、価値観を生かすことが組織としての成果に繋がるのであると述べている訳です。


次に、「知識を生かす知恵(智慧)」については、先ず知識と知恵(智慧)の違いを理解する必要があると言えます。「知識」とは、誰かの作った正解のある答えをできるだけ多く暗記し状況に合わせ記憶の中から素早く導き出す力のことであり、「知恵(智慧)」とは正解のない問いに対してそれまでに蓄積した知識を活かし自分で答えを導き出す力のことであると私は考えています。

この「知識」というものは、形式知を形式知として使用する力のことであり、一橋大学名誉教授である野中郁次郎先生が提唱する知識創造理論におけるSECIモデルでは、「Combination(連結化)」にあたります。この「Combination」の領域は、AI(人工知能)が最も得意とする領域です。その意味するところは、これから訪れる近い未来においては、「知識」のみを強みとする人間は存在としての価値が著しく低下し、人間よりも扱いやすいAIに代替されていくということを意味しています。

他方で、「知恵(智慧)」とは形式知を自身の経験に基づく暗黙知に繋げ、暗黙知を再度形式知として表出化する力とも言えます。SECIモデルにおけるところの「Internalization(内面化)」から「Socializaiton(共同化)」を経て「Externalization(表出化)」すること、或いは、「Exercising Ba(実践場)」から「Originating Ba(創発場)」を経て「Dialoguing Ba(対話場)」をデザインする力であるとも言えます。この「知恵(智慧)」の領域は、AIでは生み出すことが難しい領域であると言え、人間が人間として存在するための価値を生み出すことができる可能性が残されている領域であると言えます。

これからの時代において、人それぞれが自らの存在としての持ち味を生かすためには、「人はそれぞれが異なるという認識」を前提とした上で、「知識を生かす知恵(智慧)」を養っていく必要があるのだと私は考えています。



中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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