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適正な給与を決める要素とは

松下幸之助 一日一話
12月 6日 適正な給与

だれしも給与は多い方がよいと考えます。その考え方自体は決して悪いとは思いません。しかし、会社がかりに多くの給与を出したいと念願しても、会社の一存によって実現できるかというと必ずしもそうはいかないと思います。やはり、それだけの社会の公平な承認が得られて、はじめてそれが許され、恒久性を持つわけです。

給与が適切であるか否かは、会社にも従業員にも、その安定と繁栄にかかわる重大な問題であり、同時に社会の繁栄の基礎ともなるものです。お互いに十分な配慮のもとに、絶えざる創意と工夫を加えて、その適正化をはかっていかなければならないと考えます。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

もしあなたが社員として働く会社の社長から、「あなたの給与は会社の一存では決められません。」と言われたならば、あなたはどう感じるでしょうか。「何を寝ぼけたことを言っているのだ。社長であるあなたの一声されあれば簡単に決められるだろう。」と思う人が多いのではないでしょうか。

松下翁は「適性な給与」について考える際には、自分の給与と会社の関係性、更には、社会との関係性について深く考える必要があると仰っています。松下翁はなぜ、そのような考えを持っているのでしょうか。

松下翁は、著書「物の見方考え方」にて「金だけが目的で仕事はできぬ」として以下のように述べています。

…ただ利益だけのために、事業を経営していくというのでは、意義がないと思う。もっと大きな生産の使命があるはずである。それは何かというと、いろいろの物をつくって社会の多くの人たちの経済生活を、日一日と向上させていくという生産の使命である。そのためには、会社は資金が必要である。その資金を利益の形で、社会に求めることが許されているわけである。

お互いの仕事を遂行するためには、会社も人間も健在でなければならないが、そのためにはいろいろのものが会社の経営に、人間の生活に必要である。その必要なものを生み出すものが利益であり、月給なのである。それ故に利益や月給が最高の目的ではないのである。人間食わずには生命を保つことができない。給料をもらわなければ、やっていけない。会社もそれと同
じで、社会に多くの利益を要求する。

しかし尊い使命を達成するための利益であるから、無意味に使うわけにはいかない。よりよき再生産のためにその資金を使っていく。一部は従業員の生活の向上に回す、一部は会社の設備に回す、一部は社会に還元して世の中のためにする、そうして人々の生活を、個人も会社もみな向上させていくために、それぞれの会社が大きな役割を受け持っているというふうに解釈していくべきだと思う。そういう考え方で経営すれば、給与でも会社の利益でも、世間からどんどん提供されてくるはずである。われわれの社会に対する貢献が大きければ大きいほど、その報酬も大きく利益として、還ってくる。

それに反して、利益を大いに上げようと思っても、その利益にふさわしくない仕事をしていれば、利益はだんだんと社会から還ってこなくなる。われわれの働きが社会から喜ばれなければ、社会からの報酬も期待しえない。このことはわれわれはつねに考えねばならぬ問題である。

こういう会社のあり方についての理解と自覚があってはじめて、われわれが一生懸命に働こうという意欲が生れ、能率があがるわけである。しかし、この半面、こういう会社の姿を、世の中が認識してくれなければ何にもならない。価値があっても、世の中が認めてくれなければまったく意味がない。世間が認識してくれてはじめて、われわれの感激が生れるものである。…

われわれが非常によい仕事をしたとする。ところが世間では認めてくれない。われわれは非常に不満である。しかしよいことなのに人は認めてくれないということは、世間の人が悪いという解釈もできるが、いつかは認めてくれるだろうと、じっと耐えしのぶのも一つの方法である。今日隆盛をきずいている会社は、そういう過程を経て、その成果をあげているのである。
(松下幸之助著「物の見方考え方」より)

松下翁の考えならば、会社に多くの利益が出たとしても給与に繁栄することもなく、無駄に使わない訳ですので、大きな設備投資などをしない限りは利益がそのまま会社に蓄えられるはずです。社員の立場としては、何か経営者である松下翁にとって都合が良いだけのようにも感じます。

松下翁は、松下電気器具製作所の創業(1918)から約12年後に世界恐慌(1929~)を体験しています。多くの経営者がリストラや給与削減の大決断を迫られましたが、30代半ばにさしかかった松下翁は、当時の心境を、以下のように述懐しています。

金解禁、開放経済に向かわんとして、政府がそれに踏み切ったわけですよ。そのときだいぶガラガラッと来たわけですよ。さっぱり売れんようになってしまった。その時分は今みたいに、銀行は金貸しませんからな。だから、むしろ完全に引き締めですよ。(中略)だからスパッと売れんようになってしまったんですよ。(中略)職工さんは半日休み、そして給料は全額払う。ただし、その時分は個人経営でしたから店員といいましたが、店員は休みなしでやったんです。店員は朝から晩まで駆け回って売れるだけ売れ、値段は安くしたらあかん、値段は安くしたらいかんけれども、できるだけ努力せえと、そういうことでやったんですよ。そうしたら二ヶ月したら、すっかり倉庫が空になって、また全部活動したんですわ。ところが、その二ヶ月の体験によって、店員にも職工さんにも非常にいい筋金が入ったわけですよ。またわれわれ経営者としても、ものにはやる方法があるもんやという、非常に大きな体験を得たわけですね。非常に強いものがあとに生まれたわけです。
(松下幸之助著「社長になる人に知っておいてほしいこと」より)

当時の松下翁は、社員を一人もリストラすることなく、売上がない状況でも給料は全額支払い、更には社員たちのやる気を鼓舞し「努力」を引き出した上で、取引先にはお金のかからない「勢いや活気」を与えるサービスなどをしたことが好評を得て、逆境を乗り越えることに繋がったそうです。

社員の立場であるならば、会社の利益に貢献しても給与は急激には上がらないことに少なからずの不満はありながらも、それ以上にどんな状況下にあろうが安定した仕事と給与がある訳ですから、松下翁が会社に利益を蓄えようとする理由には納得がいくのではないでしょうか。

加えて、松下翁は「仕事とお金に対する考え方を通して、なぜ給与が会社の一存によって決められるものではなく社会に影響を受けるのか」について以下のように述べています。

…同じ勉強ではあるが、学校の勉強は金が要り、会社に入ってからの社会的な勉強には金がもらえるわけである。学校時代と、どれだけちがうかというとあまりちがわない。むしろほんとうの人間としての修業は、会社に入ってから始まるのである。しかも、その修業には金がもらえるのだという見方をする人もある。
 また自分は一人前の人間として、学校へ行っていたのだから会社に入れば当然金をもらえるのは当たり前だ。給料だって安いじゃないか、という人もあるかもしれない。このどちらが会社をよくするか。会社だけでなく、会社関係者、製品の利用者などもそういった人をみてどう思うか。おのずとわかることである。それに反してこれから大いに勉強してやろうという考えの人は非常に結構である。こういう人に対しては、会社のお得意先や一般需要家は、その会社までもほめることになるのである。
 こういう心がけのいい人がいるからいいものができるので、会社も発展するだろう。今後この会社のものをどんどん買ってやろうという気にもなってくるのである。
 そこに会社の発展があり、社員生活の安定と向上の裏づけというものが世間によって与えられるわけである。会社が会社みずからの力を持って社員の安定と向上というものを裏づけようとしても、会社の力というものは、きわめて微々たるものなのだ。その微々たる会社自体の力を持ってしては、大したことはできない。
 やはり広い社会から前述のような広い形においてその会社の評価をされるのが大切なのである。社員の心がけがよいから、サービスもいい。したがって製品もいい。
 だからその会社を応援し、その会社のファンとなって、いろいろな形でその会社を支持し応援してやろうという力がわき上ってこそ、社員の向上、会社の発展を裏づける力となるのである。
 そういう力を無視しては、会社はたくさんの社員を擁して長い年月を経営していけないのである。会社の持っている力というものは結局、世間から支持されている力によって初めて力と考えられるのである。
 したがって、会社に入った社員はまず何を考えねばならないかというと、いろいろな考え方はあるが、やはりその会社の伝統を尊び、会社の仕事を喜び、そしてその会社の仕事を通じて社会に貢献するということでなければならない。…
(松下幸之助著「物の見方考え方」より)


翻って、稲盛和夫さんが構築された京セラのアメーバ経営(事業部別の独立採算制)においては、利益と配分に関して以下のように行われているそうです。

事業部別の独立採算制を採用している場合、問題となってくることがあります。それは成果配分です。例えば、いくつかの事業部に分け、それぞれ独立採算で見ていくと、一つの事業部は大きな利益が出たけれども、一つの事業部は赤字を出したというように、収益がアンバランスになるケースが発生します。その場合どうするのかという問題です。

 一般には、収益のたくさん出た部門の人たちにボーナスを出したり、高い給与を払ったりしているのかもしれません。つまり、成果に従って利益配分を行うわけです。特にアメリカでは、このような利益の成果配分を行っている企業がほとんどではないかと思います。…

 アメーバ経営で多くの方が不思議に思われるのはこの成果配分のことであり、業績の良いアメーバの給料をアップさせるとか、ボーナスを多くするということをしないということに、なかなか納得されないようです。京セラではあるアメーバが業績に貢献し、会社全体の牽引役となって仲間のために貢献したとしても、給料、ボーナスなど、金銭的に報いることはしていません。その集団に与えられるのは賞賛と賛辞だけなのです。…

 なぜ金銭や物質でもって報いてこなかったのか。それは人間の心理を考えたからなのです。業績が上がればボーナスが余計にもらえる、給料が上がるとしましょう。そうすると、もらったところは士気が高まり、さらに高いボーナスをもらおう、給料も上げてもらおうと盛り上がることでしょう。

 しかし、業績向上が果たせなかった事業部は、それを目の当たりにして意気消沈してしまいます。ある事業部がますます活況を呈していくのに対し、一方の事業部は、それに反比例して沈滞していくわけです。それでは会社全体としてうまくいくはずはありません。

 また、意気消沈する事業部に「君らもがんばりなさい。業績が上がったら必ずボーナスや給料がアップします」と励ましてみても、なかなかうまくいかないこともあるでしょう。人間というものは、一年や二年がんばってみてうまくいかなければ、だんだん拗ねてひがんでくるものです。

 さらには、うまくいっていた事業部もいつまでも順風満帆にはいきませんから、業績が落ちるときが来ます。すると、今まで高額のボーナスをもらっていた人たちが「業績が悪化したので、今回のボーナスは出ません」と言われたら、どう思うでしょう。人間の心というものを考えれば、やはり意気消沈してしまうはずです。同時に、住宅ローンの返済もできない、などの現実的な問題が生じてしまい、それが不満に変わることになるでしょう。

 一方では、万年うまくいかなくて意気消沈している事業部がある。また一方では、会社を引っ張ってくれると期待していた事業部まで低迷しだして、人間関係が崩れていく。それでは会社全体が悲惨な状態になってしまいます。つまり、会社の業績がアップ・アンド・ダウンを繰り返すように、人の心も決して安定しないのです。

 よくがんばってくれたところには賞賛を与え、周囲の従業員も「君たちががんばってくれたから、会社がうまくいって、自分たちもボーナスをもらえる」と感謝する。私はそのように、好業績に報いる方法として、名誉だけを与えるという形をとってきました。それは、みんなで努力をし、みんなで物心両面の幸福を実現しようと考えたからです。そのためにも、創業のときから「仲間のために尽くす」ことの重要性を強く説いてきたのです。…
(稲盛和夫さん著「京セラフィロソフィ」より)

昨今においては、一部の新興企業において社員の給料を一律同額制にするケースも登場してきました。上記の稲盛さんのケースのように、「仲間のために尽くす」ことや「人間の心を中心に考える」という側面からは正しい経営スタイルであると言えます。しかしながら、給与に対する公平性はあるものの、松下翁のように「会社に集まった利益を無駄にしない」、或いは、「社会の公平な承認を得る」という側面は、残念ながら満たしていません。そこには、松下翁や稲盛さんのような社員の手本となるような指導者としてのあり方や考え方が、大きな影響を与える要素になるのだと私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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