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ゲームにキレたって、いいじゃない

「ぐわあああああああ!!!!!」

同居人が叫んでいるとき、わたしは煙草を吸っていた。
どうやら、ゲームで先に進めないらしい。

「休憩!」と言って立ち上がり、トイレに行く後ろ姿に
「ゲームでキレるなよ〜〜〜」と笑いながら声をかけた。

言った直後に、「ちがう、まちがえた」と思った。

ゲームでキレたっていいじゃないか。
キレる、という言葉に、あまり良い印象がないので、ちょっと言葉を変えてみる。
「一生懸命頑張っていることが、うまくいかないときは、悔しがったっていいじゃないか」



給食のときの放送で、J-POPを流さなかったのは、小学生の頃だと思う。
なんだか「J-POPは軽薄だから、クラシックのほうがいいだろう」みたいな感じで、クラシックばかり流れていることに、すごく違和感があった。

父親が買ってきたサンデーとマガジンを、子供の頃は隠れて読んでいた。
子供は、少年誌漫画なんか、読んじゃいけないと思っていた。
そもそも、漫画について「よくないもの」という印象を、子供のわたしはどこで受け取ってしまったのだろう。

昭和の終わりに生まれ、平成と共に成長したわたしの、時代背景もあるかもしれない。
理由は説明できないけど、この感覚は、同年代の方なら同じような気持ちになってもらえるのだろうか。

小説は学校に持ってきてもよかったけど、漫画は持ってきてはいけない。
というのは、高校生まで続いたと記憶している。



中学生になったわたしは、本も読むし、相変わらずサンデーとマガジンも毎週読んでいた。

この頃は家族公認で、毎週水曜日(サンデーとマガジンの発売日)だけ、帰宅後いそいそと父親の部屋に行ったりしていた。
わたしは、サンデーとマガジンに育てられた。
この頃は、友達から1週間遅れでジャンプを譲ってもらって、それも読んでいた。
わたしは部屋で、何度も泣いた。

ゲームならば、FF9とテイルズオブエターニアには、すごく影響を受けた。

特に、FF9は何度もプレイして、気になるセリフを全部メモにとって読み返していたという徹底ぶりだった。
主人公ジタンの掲げる「真諦」は、いまでもわたしの心臓を刺したままだ。
いまでも泣ける。

ゲームで感動してもいい、
漫画より小説のほうが優れているとか、漫画が悪だとか、
クラシックはすばらしくてJ-POPは軽薄だとか
そういうのはくだらない
、と。この頃から、確かに思っていた。



「ごめん、間違えた。ゲームでキレてもいいよ」

トイレから出てきた同居人に、謝った。
キレる、と言っても「うわあああ」と叫んでいるくらいで、不機嫌になっているわけではない。
不機嫌になって当たり散らされたら迷惑だけど、
そうでないなら、別にいいじゃないか。
部活で流す涙ばっかりが、きれいなわけじゃない。
なんだって、一生懸命やっていれば、いつかもっと上を目指したくなったり、うまくいかないときが訪れる。
「悔しい」は「頑張った」「真剣に向き合った」という勲章だと、わたしは思う。


そして、すこやかな人生っていうのは、「一生懸命さ」の先にあると思う。
なにかに真剣に向き合い、突き進んでいくこと。
文化祭に向かって、クラス一丸となって進んでいくような、高揚感。

もちろん、人生は文化祭ではないので、終わりが来る。
文化祭前だけ頑張ればいいわけではないので、サボることや休むこととも、向き合わなければならない。

でも、なにかに「一生懸命だった」と。
振り返ったときに、何か手元に残れば。
そして、一生懸命だったら、きっと残る。



今日、ドラゴンボール超を見終わった。130話を越える物語だ。
でもわたしは、「そんなにたくさんアニメなんか見ちゃって……」なんて絶対言わない。

これからの人生で、わたしはサイヤ人の気高さを尊敬し続けるし、
亀仙流の教えを、絶対に忘れない。

絶対に忘れない、と言っても、いつか記憶からこぼれ落ちるかもしれない。
わたしはあんまり、多くのことを覚えていられない。

でも、一生懸命向き合った、そして多くを教わった。
そしてその対象が何であっても、別に恥じることはない。良し悪しがあるわけではない。
きちんと、自分の心が知っているはずだ。



これから何度も、悔しい夜が訪れる。

そのときにどうか、他人に当たったり、比較したり、自分を傷つけたりしなければ
悔しいという気持ちを、
受け取った感情を
ひとつずつ、大切に受け止めていきたい、と思う。





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