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月明かりに照らされて

「あなたの文章は、本当に良い」

ときどき、そんなふうに言っていただけることがある。それも、真顔で。
本当に、そう思ってくれているンだろうなあ。
ありがたい、と思うのに、そういうときだけ意識がひゅうっと抜ける。
いや、まさか、わたしが、
気づいたら、「いやいや、そんなことは…」と言いながら、自分のダメな部分をバーゲンセールのように語り出してしまう。

褒められるのは、昔からあんまり得意じゃない。
洋服とか、ハンカチとか、ネイルだったら「ね? かわいいっしょ?」なんて言えるのに。
対象が、「自分の作ったもの」になると、ぜんぜんダメだ。
わたしはいつも足りないところとか、他人と違うところを数えている。
そして、「まだまだだなァ」と思う。

それでも、辞めたらしあわせになるかって言われたらそうじゃない。
どうせ何をやっても飽きてしまうわたしならば、書いたり弾いたりしていたほうがいい。
この直感は強く、わたしの首をあたたかく締め続けている。
「他の生き方は知らない」とか、
「○○がなければ生きていけない」という言い回しは、あまり好きではない。

わたしは他の生き方も知っている。
別に書かなくても弾かなくても、この世から何が消えても、3日後とか3年後、30年後には笑って生きているだろう。きっとそうだ。定評のある薄情さだ。

それでも、今の生き方を選んだ。
という言い方を、わたしは好いている。
そういう、生き方ごと、まるごと。

尊敬している人がいる。
まるっとその人に憧れているというわけではない。むしろ、どうしようもないところもたくさん知っている相手だったので、ぐさっときてしまった。今でも、定期的に思い出すようにしている。

町田駅の、西友の反対側の、喫煙所があったあたりを二人で歩いていた。
(あの喫煙所が今もあるか、わたしはもう知らない)
店に向かう途中だった気がするけれど、なんで出勤前に一緒にいたかも、思い出せない。

その人は勤めているライブハウスの音響担当の上司だった。
何年か一緒に働いていたけれど、後半のほうは、マイクを買うよりカメラやレンズを買うことのほうが増えた。
音響だって、べつに専門学校を出ているわけでもなんでもなく、他にやる人がいないから覚えただけで、最初のレコーディングはMTRで録っていた。そこからパソコンを買って、機材を揃えて、にこにことマイクを買い集めていた。という過程を、わたしは隣でずっと見ていた。

そして、カメラとレンズを買い始めて、写真も動画もできるようになったって、すごくないか?
最終的に自分のバンドのCDの「録音からミックス、マスタリング、ジャケットデザインとアー写撮影のすべて」をお願いしたうえに、リリース時には動画を作ってもらったりした。
これ、ひとつでもプロフェッショナルな仕事をできたら、それだけで充分すごいことなんですけど。

「すごいっすね」と、わたしは言った。
もう何年も会ってないから、敬語で話していたのかどうかすらあんまり思い出せないけれど(あんなに一緒にいて、一生分お世話になったのに。薄情過ぎる)
わたしは褒めた。まじですごいと思った。
そして、自転車を押しながら隣を歩いていた男(この人は、自転車も好きだった)は、こちらを見るでもなく、思い悩むでもなく、「今日どこのラーメン屋行こうかな」っていうのと、同じ調子で、つぶやくように言った。

「金も、時間もかけたから」

もう10年近く前のことなのに、いまでも思い出すから、一生忘れないんだと思う。
金も、時間も、という言葉は重たかった。
当時、わたしはこの人のシフトと、その他抱えているレコーディング等のすべての仕事を把握し(ふたりでいる時間が長かったら、なんでも話していた。隠し事はなかったと思う)、だいたいの給与も知っていた(同じ店で働いて、給与計算もしていたから)。
当時、わたしはわたしで一生懸命に取り組んでいたことがあったけど、ジョブやスペック的にできるようになったことが増えたかと言われると、そうじゃなかった。
同じ店にいて、同じ空気を吸っていたのに
ドスンと重たいものが、身体の中心に落ちるような感覚を、わたしは忘れない。

「最近のエッセイ、よくなったね」

電話口で、母が言った。
去年の秋頃は病気のせいで、集中すれば頭痛、そもそも集中できず文字も追えないような暮らしをしていた。
「最近は具合がよくなったよ」と話していたら、エッセイのことを褒められた。
「元に戻ってきた感じがするよ」と言われたので、「元よりよくなってるはずです〜!」と笑って言い返した。

ここ2ヶ月ほど、本を読み、言葉について思い悩み、日々の言葉の中で(小さな)ハイジャンプを繰り返すように挑戦をして、「書けないもの」を「書けるもの」に変えようとしていた。
少なくとも、「書いたことないもの」を「書いたことあるの」に変えることはできた。ような気がしている。

「努力した」と自分に太鼓判を押すことが苦手だ、と思う。
「そんなに毎日書いててえらいね」と言われれば、「いやいや」と言う。
誰でもできますから、と言うと、できない人を糾弾しているように取られるのであまり言わないけれど、少なくとも毎日料理をすることよりも、エッセイを書くことのほうが簡単だった。
誰にとっても、そういうものがあるんだと思う。
会社の、毎日ランチを外食しているみんなだって、わたしから見たらすごい。
そんなに食べることと、誰かとおしゃべりをすることに毎日労力を払えない。と思ってしまう。わたしは休憩スペースでお弁当を食べ、ソシャゲをまわして昼寝をしていた。ソシャゲだって、時折面倒でサボっちゃうのに。

わたしは誰でもできることしかやっていない。
他人と比べたらできないことだらけだ。
と、思っている。
それがすごい後ろ向きな気持ちとしてではなくて、事実として。
そして、できないことの中で、「できるように努めること」と「できないまま折り合いをつけて生きること」の線を、できるだけ上手に引くように、と。都合よく考えているだけだった。

でも、最近はちょっと頑張れたかもしれないな。
ちょっとうれしい。
ようやく、友達との隣に笑って立てるような、そんな晴れ晴れとした気持ちだった。

「金も、時間もかけたから」

思い出したのは、この言葉だった。
5歳年上のこのひとが、このせりふを吐いたときより、わたしはもうおとなになったと思う。
あのときの月明かりはうんと遠くにあった。わたしのことは、照らしてくれていないみたいに。
でもたぶん、月は平等にあった。そしていま、長い歳月をかけて、その光の近くまできている。のかもしれない。

ようやく、いまごろになって「ちょっとわかった」なんて、笑ってみてもいいスか?




※now playing



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