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クッキーはいかが?

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1200文字以下のエッセイ集。クッキーをつまむような気軽さで、かじっているうちに終わってしまう、短めの物語たち
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2021年11月の記事一覧

適切な視線と距離

「息、うまく吐けなかったですか?」 そう問われて、わたしは困ってしまった。 それは病院の出来事で「歩くと息苦しさがあるんです」と伝えたら、脈とか血圧を測られて。 値が正常だったので「呼吸の検査しましょう」と言われて 向かった先で、何やら太い管……管と言うには太すぎる、くわえるには適さない、ストロー50本分くらいの物体を一生懸命口に入れて、「息をこぼさないで」「口をすぼめて」「吐いて」「止めて」「吸って」っていうのを うまくできるひとって、この世に存在するのだろうか。 すご

言葉のリレー

午前0時 を、少し過ぎたころ。 メールが届く。 * 思い立って、noteの予約投稿っていうのを始めてみた。 少し前にnoteプレミアムの会員になってからも、予約投稿の機能はうまく使えなかった。 もちろん、使い方がわからない、とかそういうことではなくて。 べつに、書いたり弾いたりしたら、すぐ投稿すればいいじゃん。って ほんとうに、その通りなんだけど 書き溜めはしたくないとか、 わざわざ決めた時間に投稿することはない、とか なんだか、言い訳染みた言葉ばっかり湧き上がって な

あなたに手紙を書いたのは

あなたに手紙を書いたのは、 あなたを思い出したからです。 ひとりで部屋にいても、歩いていても あなたの気配は、ふいに訪れて おかげでわたしは、希望の淵を歩けているのだ、と思います。 ときには落下して、もう終わりだ、と思うようなこともありますが 落ちた先の、か細すぎる平均台のような足場でも、どこか懐かしい風が吹いている。 ということに、最後には気づいてしまうのです。 絶望しきれないのは、あなたと越えた夜が、いまでもわたしを後押ししてくれているからでしょう。 あのときも、なん

美しい誘惑

ああ、このまま眠るのはよくない。 気づいてはいる。 けれども、どうしようもない夜もある。 動かない、と思う。 眠り、というよりも、気絶に似ている。 やろうと思っていたことの、ひとつも終わっていない。 お皿も洗っていなければ、掃除もしていない。 できれば洗濯もしたいなんていうのは、夢の先みたいな野望となってしまった。 買ってきた日用品も、かばんもそのまま。 ああ、よくないなあ、と思う。 状況に対して、いいか悪いか、で言ったら、きっとそうなのだと思う。 でも、動けない。 動か

きっと、海を越えて

メールが届いて、驚いた。 それから深く、頷いた。 AmazonPayの支払いで、利用先はクリックポストだった。 そうだ、友達へ荷物を送ったんだった。 郵便、を愛しているのかもしれない。 むかしからそうだった、と思う。 切手が好きだし、むかしはヤマトのメール便をよく使った。(メール便専用の黄色い定規みたいなのも持っていた。安くて便利だった) いまでもたくさんのサイズの封筒を常備しているし、レターパックのストックも欠かさない。 ここ数年の発見は「クリックポスト」で、 ラベル

錯覚ノック

「よくなるかもしれないから」という、その声だけ覚えている。 そして、トントン、と二の腕を二度、叩かれた。 良い先生でよかった、と思う。 週に一度病院に通って、たいそう痛い治療で、 「痛いって言ってすみません」 「それで耐えてるんで」 と強がって、最後には必ず泣く。 この人だって、わたしを泣かせたいわけじゃないのに申し訳ないなあ、と思う。 最近は、言わなくてもティッシュを差し出してくれるようになった。 そしてついに、肩を叩かれた。 * 肩を叩かれるとほっとする、ということ

夜、記憶の中の君

眠れない夜、というのは必ず訪れます。 具合の良し悪しも 心のすこやかさも 関係あるときもあれば、無関係な瞬間にも 不安なときにも、楽しみに溢れるときにも おとなにもこどもにも 等しくなくても必ず、訪れるものです。 眠らなくては、と思うことを なぜだか最近やめました。 ほんとうに、なぜだか不思議に思うのです。 わたしが思い出しているのは、 もう、十余年も前の出来事なのですから。 * そのときわたしは、彼とふたりきりだったのか、 さんにんだったか、覚えていません。 たぶ

明日へのギフト

「今日は家事、サボります」 頭を下げている絵文字と一緒に、メッセージを送る。 きっと相手は、何をサボっているかですら気づかないことに、わたしは気づいている。 部屋の掃除をしなくたって、花の水を替えなくたって、目に見えるものじゃない。 シンクに置きっぱなしのお皿を見て、「これのことね」と思うかもしれない。 わたしは、わたしを許すためにメッセージを送っている。 「むりをしなくていいよ」と言われているし、休んだってべつになんてことはない。 ただ、わたしのため。 「よし、お風呂入

そのままのわたし

「よっしゃ」と立ち上がる。 「それじゃあ」と言うこともある。 立ち上がって、動き出そうとする。 「むりしないでね」 その声は、じんわりと響いた。 コーヒーみたいにやさしくて、ちょっと苦かった。 * その言葉は、あたたかいのに難しい。 「むりをしない」ってなんだろう。 「サボる」のと何が違うんだろう。 「休みたい」と「休むべき」、線を引くことは永遠の課題のような気がする。 むりしなければ、なにもできないよ 「好きなこと」を好きなままでいるのって、どうして難しいんだろ

いちごミルクの夜

「あっ」と声には出さず、心臓だけがざわっと動いた。 ああ、お湯も沸かして準備万端だったのに。 今晩はどうしても、ミルクティーのきぶんだったのに… チョコレートフレーバーの、ティーバッグは残りひとつ。 ひとつじゃだめなの。 わたしはいまから、お気に入りのティーサーバーにたっぷりとお茶を淹れるの。 少し飲んで、残りは冷蔵庫に。 それから継ぎ足すように飲み続けることも、朝の分のお茶があることも、用意された幸福の物語だった。 だから、ティーバッグはふたつ必要だったのに。 どうし

ティーバッグも、ゴールデンだから

彼となぜ、そんな話になったのかは覚えていません。 もう何年も前で、話したのは音楽スタジオのロビーでした。 話したのは、紅茶のことでした。 わたしたちは大抵、練習しながら何かを飲みます。 周りの何人かは、わたしと同じように煙草とコーヒーを愛しています。 彼は煙草を吸いませんが、 「美しさ」を愛する人だったのだと思います。 あと、料理が好きな人だったと記憶しています。 「コーヒーは、ペーパードリップしてるんだ」 「紅茶も飲むよ。ティーバッグばっかりだけどね」 わたしのこ

とある花屋の話

花のことは、彼に尋ねるようにしています。 彼は一度、花屋でアルバイトをしていたのです。 それは、ごくごく短い期間だったと言いますが 努めていた先の花屋の店主は、気高い魂で花と向き合う人だと、わたしは知っていました。 わたしは彼を通して、店主をいつでも信じています。 彼は、花の水を変えるとき、茎を少し切るのだと教えてくれました。 ずいぶんたくさん切ったので、花瓶のサイズに合わなくなって、わたしは心配になったりします。 「でも、こうすればきれいな期間が長持ちするから」 傷んだ