見出し画像

【前編】母の女王化、父の諦めまで。

これから私の育った家庭について書いていくにあたり、まずは虐待が本格的に始まるまでを
・家庭の状況の変化
・私の心の動き
に分けてざっくりここにまとめることにしました。

前編では幼少期〜小学校中学年をまとめました。

幼少期

家庭の状況

この時期は私の記憶ではなく、人から聞いたり写真や記録を見てわかる範囲になりますが、おそらく幸せな家庭でした。
普通のマンションの一室で、専業主婦の母とアクセサリーを手作りしたり、小児科を開業したばかりの父に「たかいたかい」をしてもらったり、一つ上の兄の真似っこをしながら温かい時間を過ごしていた記憶があります。

その一方、主に母が幼稚園の教育方針に強く影響を受け、家庭でテレビやゲーム、キャラクターグッズなどが禁止になっていきました。明確に「禁止」と言われていたわけではなく、暗黙の了解としてこのルールができていった、という感じです。

私の心

唯一「他の家と違うな」と感じた記憶は、幼稚園でお友だちがプリキュアの変身ポーズをしている横で何もできなかった時です。年長にして「ついていけない」と思ったことを覚えています。

でも当たり前に親のことは大好きで、テレビやゲーム以外にも楽しいことなんていくらでもあって、とにかく「幸せだったな」と振り返ります。本当に愛してもらえてたんだと思います。

小学校低学年

家庭の状況

この頃、6歳離れた弟が生まれました。母は弟の育児で精一杯だったと思いますが、私や兄に対する親の愛情がなくなったと感じたことはなく、家族みんなで弟の成長を楽しんでいました。

幼稚園の教育方針の影響をまだ引きずっていた我が家ですが、テレビでは『おかあさんといっしょ』が流れていた記憶があります。また、NHKの『ダーウィンが来た』、TBSの『ふしぎ発見』だけ、なぜか観ることができました。兄と一緒にそれを本当に楽しみにしていたのを覚えています。この頃は「教育になるか」という基準で制限をつけていたのだと思います。

私の心

とにかく弟が可愛くて仕方なかったのを覚えています。学校から帰ってすぐに弟と遊んだり、弟を雑に扱う兄を注意したり、楽しくて仕方ありませんでした。

シャイな私も家では自分を出すことがまだできていて、大声で『おかあさんといっしょ』の童謡を熱唱したり、「うたのおねえさんになりたい」と夢を語ったりと相変わらず家族が大好きな女の子でした。

でも、周りの友達がキャラクターの文房具や靴を使う中私だけ地味な単色の物を使っていてそれがコンプレックスでした。「欲しい」と言っても聞き入れてもらえず少し悲しかったことを思い出します。唯一買ってもらっていたシナモロールの定規はよく覚えています。
また、2年生ごろから始めた進研ゼミでもらえる教育のための漫画やゲームも、それを「娯楽」と捉えていた母の前で使うと、嫌な顔をされ使えませんでした。

小学校中学年

家庭の状況

この頃、新築で一軒家を建て同じ市内の中で引っ越し・転校をしました。周りの家庭も習い事をしている人が多かった影響で我が家でもピアノやスイミングを習わせてもらえることに。「一度始めた習い事は絶対に続けなさい」と言い聞かされていました。「逃げるな」というのが我が家のルールでした。

この頃までは母も他の家庭と繋がりがあり、家にご近所さんを招いたり子ども会に参加したりと、いわゆる普通の家庭だったと思います。

私の心

放課後はほぼ毎日近所の友達や兄と公園に行っていましたが、ゲームやテレビの話になると全くついていけず…。私のシンプルすぎるデザインの持ち物も小学生のセンスでは「ダサい」ので、相変わらずコンプレックスでした。
ちょっと都会寄り(?)の小学校をあまり楽しめなかった私ですが、土曜日に通っていた幼稚園主催の学校が居場所となり、それを楽しみに過ごしていました。そこの友達は、時々テレビやゲームの話もするもののそれ以外のことでいくらでも盛り上がれる友達で、やはり幼少期の育ちが似ている者同士居心地が良かったのだと思います。

まとめ

振り返ってみるとこの頃までは多少厳しく制限をされていたものの、ただただとても幸せな時間だったと思います。客観的に見てもとても恵まれた環境にいました。この頃の父や母との思い出や自分が心から楽しんで過ごしていたという事実は、最近やっと「大切にしなくていけないな。」と受け入れられるようになってきています。

この記事が参加している募集

#振り返りnote

84,703件

#これからの家族のかたち

11,294件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?