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街中華のマトリックスを味わう

 その日、何十年かぶりに夫婦でマクドナルドに行った。
 久しぶりなのに、昨日も来たような見慣れた店構え。どこのマクドナルドに行っても、店の様子が変わらないのは、大企業ならでの戦略の一つなのだろうか。

 そんなことを思っていると、奥のほうから
「テレレ、テレレ」
 ポテトの揚げ上がりを報せる音が聞こえてきた。
 この音を生で聞くのも久々なはずなのに、昨日聞いたかのような耳慣れた音に感じる。

 私はダブルチーズバーガーにポテト。夫はフィレオフィッシュバーガーにサラダを頼んだ。記憶に残っているマクドナルドの味。舌の上で再現される懐かしいジャンクな味は、揚げたてのポテトの油と共に体内を駆け巡った。

 山羊的木村さんが書かれたこの小説を読んだのは、その日の夜のことだ。

《街中華》と《マトリックス》
 共通するのは頭に《ま》がつくことくらい。
 無理矢理に共通点を探すなら、中華鍋で煽られるチャーハンの反り具合が、マトリックスの主人公ネオが銃弾をよけたときの格好に似ているかもしれない。

 物語の舞台はタイトル通り、昭和レトロを絵に描いたような街の中華料理店だ。
 仕事のトラブルのせいで昼食を食べはぐった男たちが、夜、やっとありつけたラーメンを食べ、冷え切った体を温めている。二人は同じ職場に勤める先輩後輩という間柄だ。

 一気に腹に落とし込んだ醤油ラーメンの味は、《澄んだスープからは想像もつかない濃厚で奥深い味わい》らしい。
 読んでいるだけで、お腹が減ってくる。スープの温かさが血管に巡り、体の隅々まで染み渡っていくようだ。

 体が温まり、腹が旨いもので満たされると、不思議なくらい気持ちがほぐれる。こういうとき、壁が取り払われたみたいに気兼ねがなくなり、普段避けている話題が、《つい》口に上ったりする。

 この日、街中華の白いテーブルを囲んだ二人に、その《つい》が起こる。

 店内のテレビから流れてきた《引きこもり》のニュース。
 店主がつぶやいた
「こいつら将来、どうなるんだよ」
 の一言をきっかけに、後輩が軽い調子で話を始める。
 それは、この話の主人公である先輩の男にとって、話すにも聞くにも、エネルギーを要する話題だった。減った分のエネルギーを補充するように、男たちは続々と料理を注文し、会話と皿を重ねていく。

 ここで少し、昔話をしようと思う。
 もう二十年近く前の話だ。十代の男女が集まり、テーマに沿った討論を行う番組があった。
 私はそれを、あまり好んで見ることはなかった。出演者たちの若さゆえの気取りや自己顕示欲が、私の共感性羞恥を刺激したのだ。そういう番組に出たいと意気込む若者の華やかさが、私の目には眩しすぎたのだと思う。

 夕方、テレビのリモコンをザッピングしていて、ちょうどその番組に行き当たった。いつもなら、すぐ他のチャンネルに変えてしまうのだが、その日は思わず手を止めてしまった。

 十代のメンバーたちの真ん中に、ぽつんと、幽霊のように顔の白い男の子がいたからだ。

 見ていくうちに、どうやらその子は《引きこもり》であるということがわかった。いじめをきっかけに不登校になってしまったという男の子。彼は番組にゲスト出演することで、また社会と繋がれるきっかけにしたいと思っていたらしい。

 番組にレギュラー出演している子たちは、事前にテーマを聞かされて収録に来ている。中には引きこもりを毛嫌いし、意見してやろうと息巻いていた子もいたようだ。

 しかし、心折れて引きこもってしまった少年を目の前にし、皆、息を呑んだ。彼の醸し出す、今にも消えてしまいそうな雰囲気が、テレビに出たがる活発な子たちの、旺盛な口を黙らせたのだ。

 本物の前では、言ってやろうと意気込んでいた言葉なんて吹き飛ぶものだ。《テキトーな励ましとか根拠のないアドバイス》なんてしようものなら、そのまま透明になって散ってしまいそうだった。それくらい、彼は危うかった。

 私は、あのときの消え入りそうな彼の姿を忘れることができない。
 なぜならば私自身が、正真正銘の引きこもりだったからだ。

 引きこもっていたとき、長く風呂に入らなかったことがある。そのぶん、自分の中にある汚れを出すべく、四六時中、水を飲んだ。水で満たされた胃が、動く度にボチャボチャといやな音を立てる。今にして思えば、どちらも間接的な自傷行為だったような気がする。

 番組の終盤、つん、と小突くだけで、バラバラに崩れてしまいそうな彼の顔に血の気が差した。
 男の子の一人が、
「今度、一緒に歩こうよ」
 と、ウォーキングの大会に誘ったからだ。
 こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、という言葉だけのアドバイスよりも、一緒に歩くことが、虚ろだった目に微かな希望を映し出したのだ。

 引きこもりから脱するのは容易なことではない。
 清水の舞台から飛び降りるような、  人によってはそれ以上の勇気がいる。
 だが、そんな恐怖にとらわれた思考から少しだけ離れてみると、そこには確かな充足がある。《マトリックス》の意味でもある、《物事を生み出す母体》とは、不足の影に隠れて見えなかった、《自分の意識》そのものではないかと私は思う。

 なぜ、私が冒頭でマクドナルドの話をしたのか。

 それは是非、山羊的木村さんの「街中華とマトリックス」を読んで確かめて欲しい。

 料理を食らいながら、力強く物語が進んでいく展開は、重そうな話に緊張と緩和をもたらしている。料理だけではなく、後輩が語る話に登場する《安野さん》も、《想像もつかない濃厚で奥深い味わい》でもって、読み手を笑顔にしてくれる。

 そういった人間味もまた、揚げたてのポテトフライのように、しびれるほど美味しいものだ。



 

 
 

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