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街中華のマトリックス

 街中華と瓶ビール。そして強火を使った食事はどこからか抜け出す力を生み出すのかもしれない。

 
 二月の金曜の夜。西高東低の強い気圧配置が列島を覆う。そこに南岸低気圧が八丈島沖を進み、夜半に雪が降る。それまでは三国山脈を乗り越えた冷たく渇いた風が吹く。

 大きな発送ミスがあり、会社の冷え切った倉庫で肉体労働を後輩の佐藤と朝から始めた。体を動かした時にかいた汗が冷気に包まれ体を冷やす。それが何度となく繰り返された。昼飯を取る暇もなかった。
 夜八時に終わり、近くの街中華に駆け込んだ。油で汚れた天吊りのエアコン、出入口に置かれた古いガスファンヒーター、通路に置かれた丸い石油ストーブ。それらが熱を放つ。なぜこんなに暖房器具があるのか、席に座るとすぐわかった。建物が古く、店内に隙間風が遠慮なく吹き込む。
 油で滑る床、煤けた換気扇。昭和からある様な白いテーブルが三つ。厨房は丁寧に掃除されている。

 正統派の醤油ラーメンを一気に始末する。熱く、そして澄んだスープからは想像もつかない濃厚で奥深い味わいだ。乾燥し冷え切った顔の皮膚に血が巡り、指先に少し感覚が戻って来た。落ち着いたので瓶ビールと餃子とレバニラを頼んだ。

「街中華で瓶ビールとレバニラって大人ですよね。ついこの前まで一品料理なんか頼んだことなかったすよ」
 後輩の佐藤とは同じチームで二年目。仕事は出来る。そして人手が欲しい時や状況が厳しい時、さりげなくそばにいる。周りがよく見えているのかもしれない。
 油で画面がくすんだテレビはニュースを映している。厨房の短い白髪頭のおやじさんは腕を組み、時々ニュースに頷いている。話題は南米の政情不安から引きこもりになった。おやじさんは「こいつら将来、どうなるんだよ」と少し湿り気を帯びた声でつぶやき、ため息をついた。

 佐藤が餃子をほおばりながら俺に聞いた。それはまるで餃子もう一枚行きますか? それぐらいのあっさりとした口ぶりだった。
「先輩、昔引きこもってました?」 
 思わず箸を止めた。面と向かって「引きこもりか?」と聞かれた人間がどれぐらいいるだろうか。そして佐藤は俺が引きこもっていた事をなぜ知っているのだろう。嫌な動悸がし、脇の下に汗がにじむのがわかる。  
「お前さ、人に向かって引きこもりでしたか?とか普通聞く奴いないだろ」
「まあ、そうなんすけど」
「誰から聞いた?」
「いや、誰からも聞いてないです」

 餃子はごま油で揚げ焼きしてある。中国にはあまりない餃子だが、何故か満州から引き揚げた人たちの餃子がこのようなものらしい。皮が固くなる前に鍋から上げる。強く熱せられたごま油の香りが口に広がる。その餃子が俺の不安を少し和らげた。
「何でおれが引きこもりしてたって思うんだよ」
 佐藤は瓶ビールを手酌で注ぎながら言った。
「僕の兄貴と同じ感じがしたんですよ」
「兄貴、引きこもりなのか?」
「今はもう違いますけど。先輩、どれぐらい引きこもってました?」

 話の中で俺の引きこもりが確定している。でもそれは嫌な感じではなかった。佐藤の兄貴と俺が引きこもっていたことと相殺された気がしたからだ。引きこもりの垣根が低くなった。そうは言っても今までこんな形で他人に明かしたことがなかった。というか、明かすことそのものがなかった。

「何が同じだったんだ?」
「すっごい抽象的な話になるんですけど、建具ってわかります? ドアとか扉とか引き戸。ずっと外に出ないで家の中にいる人って建具みたいな気がするんですよ。ぱたんぱたんって動いているけど、それだけ。蝶番みたいなのに止められて。その建具が部屋から出て来たけど、囚われたものは消せなくて、建具的な何かが残ってて。なんか先輩もそんな雰囲気があったんで」
 佐藤の話は何となくわかった。俺も引きこもると自分が部屋の一部になってしまった気がしていた。トイレやリビングに行くとその感覚は薄まる。部屋に戻ると自分がデスクや椅子と同じ様になる。そして自分の周りに薄い膜の様なものが貼られた。

 強い風が建物を揺らす。追加の瓶ビールとレバニラが来た。レバーは臭みがなく、一気に炒められたニラともやしがしゃきしゃきしている。佐藤はレバニラのもやしを二~三本テーブルに落とし、それを気にすることなく取り皿に大盛りにして言う。
「僕と先輩って、仕事での付き合いですよね」
「そうだな」
「これが私生活まで距離が近くてずぶずぶの関係だったら、僕は先輩に引きこもりのことなんか言わないです」
「そっちの方が言いやすいんじゃないの?」
 佐藤は俺の小皿に勝手に醤油と酢を注ぎ、そして残った最後の餃子を移し、その上からラー油を掛けた。
「何すんだ、お前」
「結構いけますよ」
「そういう事じゃないだろ。勝手に人の皿で遊ぶな」
「よく唐揚げにレモンの話、出るじゃないですか。あれってどう思います? これってそれに近いものあるじゃないですか」
 佐藤はそう言って俺の皿から餃子を箸でつまんで口に放り込んだ。俺は佐藤が何を言いたいのか、何となくわかった。
「先輩はいつ頃だったんですか?」
 佐藤はレバニラのもやしをシャキシャキといい音をさせながらあっさりと聞く。
「受験失敗したんだよ」
「大学ですか?」
「まあな」

 客が入るたびにドアから凍てついた風が勢いよく流れ込む。それをいくつかの暖房器具が打ち消す。どの窓もうっすらと曇っている。俺たちはボア襟が付いた作業用の防寒着を少し前に脱いでいた。メニューに白油鶏がある。蒸し鶏のねぎ油がけ。それを頼む。メニューはサインペンで手書きされている。昨日今日書かれたような雰囲気がする。

「俺の実家って、人口が県で四番目の街で何にもないところなんだ。国道沿いにファミレスと車のディーラーとデカイパチンコ屋とホームセンターと家電屋とラブホ。それしかない。十キロぐらい走るとイオンがあるけどな。何もないとやる事ないから人の話をするしかない。俺の両親、二人とも教師なでさ。両親教師だと周りが子どもの進学先に興味津々なんだ。本当はそんな事気にする必要はないんだけどな。まさかの大学受験の全落ち。一浪しても受かったのが親父が散々馬鹿にしてたところしか受からなくて。外に出れなくなったんだよ」
「あれですか、部屋の前に母ちゃんが飯置いてくれるやつですか?」
「いや、そこまでじゃなくて家から出られないって感じかな」
「ご両親はどうだったんすか」
「最初は混乱してた。そりゃそうよな。何が悪かったのか自分達を責めてた。夕飯は話もなく一緒に食べて、自分の部屋に戻って朝までネットとゲーム」 

 白油鶏はすぐに来た。しっかりと冷えている。それが店の暖房に緩み始めた体に心地いい。鶏もも肉に山の様なネギが載っている。生姜の香りが味を引き締める。
「引きこもってる時って具体的に何がしんどいんですか? 兄貴には聞いた事ないんですよ」
「一番ビビるのが宅配便とかのインターフォンなんだよ。喋らないで一人で平日の昼間にいるわけだろ。自分は社会的に家にいちゃいけない人間だ。心臓掴まれるぐらいビビる。後は天気がいい日」
「天気?」
「朝起きるだろ。無駄に朝日が眩しいと何か削られる気がするんだ。曇りとか雨とかなら大丈夫」
「だからみんなカーテン閉めてるんですかね」
「そうかも知れない。カーテンがないこと考えたらキツイな」
「同級生とか、外にいる奴らの事考えて、焦るとかはなかったんですか?」
「逆にそれしかないよ。周りの奴らは大学行って卒業したら社会に入り込んでいく訳だろ? 俺は大学にも行けずに何にもしないで部屋の中に転がっている訳だ。ゴミだ、ゴミ。だからインターフォンにビビるんだよ。俺を後ろ指さして軽蔑している奴らがインターフォン鳴らすって」
「宅配の人は軽蔑しないでしょ」
「それにビビるんだよ。働いているだろ、その人たち。だから出ない」

 佐藤と俺は山盛りのネギをぼろぼろこぼしながら話している。肉からは旨味が詰まった肉汁があふれてくる。
「先輩はどれぐらい引きこもっていたんですか?」
「一年ぐらいかな。だから引きこもりとまでは言えないかも」
「六か月らしいですよ、厚労省の引きこもりの定義って。だから先輩は厚労省認定ガチの引きこもりですよ」
「厚労省のどの部署が引きこもり認定するんだよ」
「職安あたりじゃないんですか?」
「マジで?」
「適当に言いました。職安が労働させるために引きこもりを日の当たる場所に引っ張り出すんですよ」
 俺と佐藤は顔を見合わせて笑った。

「先輩は外に出たの、何がきっかけだったんですか」
「マクドナルド」
「なんですかそれ」
「クリニック行ってうつ病とかの薬飲んで、少し回復したんだけど外には出れなくて。出なきゃいけないっていうのは毎日思うんだよ。親もどん底のような顔色して無理な笑顔作るし。いつまでも家にいる訳にはいかないし、これ、まずいなって。でも出れないんだよね」
 追加した餃子と瓶ビールが来た。佐藤が言う。
「僕、瓶ビールって好きなんですよ。ジョッキの生の最後の方ってすごく不味くないですか? 瓶ビールだとぬるくなっても飲める気がするんですけど」
「瓶の中に引きこもっているからだよ」
 俺たちは小さなコップにビールを注ぎながら笑った。

「なんでマクドナルドだったんですか」
「スガシカオのサヨナラホームランって曲があるんだよ。カーテンを閉め切ったままの奴がいて。テレビのプロ野球見てたら誰かがサヨナラホームラン打ってみんなで喜んでる。そんなシーン見て、俺も誰かを笑顔にしてみたいとか。そんな歌。いい歌だなって思ったんだ。歌ってること重いんだけどじめじめしてなくて。次の日、昼に久しぶりに窓開けたんだよ。少しだけ風がある、薄曇りの穏やかな日で。そしたらさ、マクドナルドの匂いがしたんだよ。マクドナルドの匂いってわかるか?」
「揚げ物の匂いですか?」
「あれ、ポテトの匂いなんだよな。その匂いがするんだよ。うちからマクドナルドって結構距離あるんだけど、風向きのせいかマクドナルドの匂いがして。で、マック喰いたいって」
「マック、行ったんですか」
「ああ。クリニック以外で外出するのは十カ月ぶりかな。クロックスのサンダル、五日ぐらい変えていない色褪せたピンクのスエット上下、いつ剃ったか分からない髭、そんなんで行ったよ。全然体力なくて、100m歩くと崩れ落ちそうになるんだけど、マクドナルドの匂いに奮い立たせられるんだ。そんな苦労してマクドナルドまで歩いたのに財布忘れて戻ってまたマクドナルドまで行った」
 思い返すと俺を覆っていた薄い膜の様なものはマクドナルドにたどり着いた頃からなくなった様な気がする。

「マックで何食べたんですか」
「ダブルチーズバーガーとポテトとコーヒー。むちゃくちゃうまくてさ。頭の芯までしびれて狂ったかと思ったよ。タイミングがよかったのか揚げたてでむちゃくちゃ熱いんだけど、鷲掴みにして一気に食ったな」
「店の中で喰ったんですか? 人目気になりませんでした?」
「そうそう。店入る時一瞬たじろいだけど、午前中の空いてる時間だったから何とかなったし、食べ始めたら周りは見えなくなった」
「マック、すげえ威力ですね」
「これがフランス料理のフルコースだったら何とも思わなかっただろうな」
 白油鶏が瞬時に蒸発したので東坡肉を頼む。街中華にしては有り得ないほどメニューが充実している。東坡肉は豚の角煮だ。普通、作るのに一時間ほどかかる。でも店のおやじは特に何も言わずオーダーを受けた。

「お前の兄ちゃんはどうだったんだ?」
 佐藤の兄ちゃんは俺とは比べ物にならない、深いジェットコースターの様な時間を送っていた。
「僕より全然出来のいい兄ちゃんなんすよ。昔から人気もあって。兄ちゃんの周り、いつも笑い声なんすよね。それが引きこもり」
 佐藤は白油鶏の皿に残ったネギを箸でつまみながら続けた。
「男子高でテニス部だったんですよ。血の気の多いラグビー部とか柔道部とかの体育部で何か揉め事があれば、穏やかに場をおさめちゃうんです。そして聞いていると、テニス部の顧問がむちゃくちゃ面倒な人なんですけど、それもうまいこと交渉するんですよ」
「どう面倒なんだよ」
「入部届持っていくじゃないですか。『硬式テニス部入れてください』って言いますよね。そしたら『硬式テニスなんかこの世の中にない。テニスとソフトテニスだ』そんなこという訳ですよ」
「どういう意味なんだ?」
「ソフトテニスはテニスの亜流だって言いたいらしいですけど」
「めんどくさいな」

 佐藤は手酌でビールを注ぐ。
「兄ちゃんは人の話をよく聞きます。僕、保育園の時からですけど、帰ったら最初に兄ちゃんの部屋に行くんです。で、その日一日の話を聞いてもらう。僕が中学生になっても兄ちゃんの部屋に行くし、いなかったら兄ちゃんの部屋でマンガとか読んで待つんです。夕飯になるでしょ。そしたら母ちゃんが兄ちゃんに話を始める。近所のあの人がうんたらかんたら、とか、職場のじじいが仕事しないとか。兄ちゃんは柔らかくうなずきながら優しく聞いてくれるんです。父ちゃん帰って来るでしょ。そしたら父ちゃんが飯食いながら兄ちゃんに言うんですよ。客があり得ない、納期守れと言う割にはデータ寄こさないから守れるわけない、とか。で、みんな一通り兄ちゃんに話したら、頃合い見計らって俺が兄ちゃんに聞くんです。兄ちゃん、今日、どうだった?って。そしたら兄ちゃん、ふわっと笑いながら『楽しかったぁ』って。それでうちの家族、完璧にリセットされちゃうんですよ。めんどくさかった一日から」

 佐藤は俺に「ビールまだ飲みますよね、餃子も二枚ぐらい食べますよね」と言いながら、最近では街中華でしか見ないような小ぶりのコップにビールを注ぐ。
「兄ちゃん、モテただろ?」
「女の子にですか? 当たり前じゃないですか。中高で女の子の話を丁寧に聞く男子、いないでしょ。ぶっちぎりでモテますよ。おまけに『なになにさんは髪の色が明るいから、逆にスモーキーなニットプルオーバも似合うと思うよ』とか言うんですよ。モテないわけがない。先輩、ホワイトとオフホワイトの合わせ方、わかります? 新垣結衣と高畑充希、ロングスカート着るとしてどっちがオフホワイト似合うと思います? 絶対わからないでしょ。兄ちゃん、ガッキーは目の色、黒が強いからホワイトで、高畑充希はブラウン入っているからオフホワイトだってサラッと言うんですよ。何でか知らないですけど俺までモテました。虎穴に入らずんば虎子を得ずですよ」
「それ、もしかしたら虎の威を借る狐の事?」 
「そうかもしれない。虎は合ってた。惜しかった。俺も流石に兄ちゃんが部屋に女の子連れ込んでいる時は入りませんでした。聞き耳は立ててましたけど」

 半信半疑で頼んだ東坡肉が来た。豚バラブロックが濃い飴色に輝いている。箸で切れるほど柔らかいが、身が崩れることはなく、程よい弾力は残してある。みりんと酒で味付けられたオイスターソースが甘辛く絡む。脂がもたれることなく滑らかに喉を通る。俺たちはしばらく無言で箸を運んだ。
「ここの料理、むちゃくちゃレベル高いですね」
「中華ってそういう所あるよな。フレンチとか和食って格式とか店構えに比例するところあるけど、中華とかイタリアンって飾り気のないしょぼい店構えがとんでもなく美味いってのがあるじゃん、あれ、何でかな。格式の概念みたいのが薄いからかな」
 佐藤はしばらく考えて言った。
「楽しいからじゃないですかね」

 しばらく店に客が入って来ない。ドアから風が吹き込むことがない。三種類の暖房が俺たちを足元からほぐす。
「高校の時の兄ちゃんは最強でした。兄ちゃんの男子高はすげぇ進学校なのに馬鹿みたいに自由な校風で有名なんです。この沿線ですよ。でも俺心配だったんですよ、あまりにアホな校風だったから」
「あそこさ、授業中に生徒が出前頼んで、怒った教師が授業中にその出前のかつ丼を食べちゃう様な学校だろ」
 全国で指折りの進学校。校風は自由闊達。
「そうそう。結果、埋もれるも何も兄ちゃんは最強でした。でも表立って目立つんじゃなくて、兄ちゃんがいるとなんか上手くいくんです。あの高校の文化祭、エネルギーが半端ないから意見が全然まとまらない。でも兄ちゃんいると滑らかに動く。俺、文化祭行った時みんなから無茶苦茶ちやほやされましたよ。焼きそばとか目の前に五個ぐらい積まれてました。テニス部の部長が俺にあーんとか食わせてくるし」

 何枚目かわからない餃子が来た。熱いごま油とニンニクの香りをビールで流し込む。
「テニス部の部長が言うんですよ。お前のアニキは凄いって。聞いたら物凄いお嬢様学校テニス部と練習会セッティングしたんですよ。その女子高には兄ちゃんの学校は野蛮で不潔でろくでもないから近づいてはいけないって不文律があったんです。部長はお前のアニキがビッグバンを生み出したって言ってました。その時の兄ちゃんのあだ名、わかります?」
「わからない」
「仏陀。大乗仏教みたいに生きとし生ける者全てを救いそうだから」
 俺は少し笑った。兄貴の懐の深さがなんとなく伝わった。

 東坡肉でこの店の実力が底知れないという事がわかった。俺は青椒肉絲、佐藤は麻婆豆腐を頼んだ。
「その年の文化祭、縮小する予定だったんですよ」
「その学校、何年か一度それあるよね。やり過ぎるんだよな」
「そうです、で、学校側から規制が入るんですけど、巡り巡って何年か経って忘れたころにまたやらかすんです」
「佐藤はその高校じゃなかったの?」
「僕はちょいレベルの低い別の男子校です。僕の学校も普通科とデザイン科と機械科があってカオスの様な高校でしたけど、あそこまで天才と奇人と変態と馬鹿がいる所、僕は無理ですよ」

 店のおやじさんが瓶ビールと小籠包を持ってきた。
「これ、まだ頼んでないですよ」
 おやじさんが言う。
「まだってことはそのうち頼むんだろ。その男子校って、こっから五つ先の駅だよな」
「あ、そうです」
「話、いろいろ聞いちまった。これはサービスだ」
「なんか料理がすごいが速く出てくるんですが、仕込んでるんですか?」
「そうそう。その日に作りたいの用意するんだよ。自分で決めると楽しいもんだ。不思議な事で大抵その日のうちにはけるしな」

 小籠包をありがたく頂く。死ぬほど熱かった。水やビールで中和しようと思ったが、中のスープがあまりに美味かったので気合いと根性で飲み込んだ。
 青椒肉絲も来た。オイスターソースではなく、塩ベース。胡椒の風味が漂う。ピーマンは極限まで細い。一瞬の火加減が必要なのだろう。味付けは繊細だ。
 佐藤がおやじさんに言った。
「フライドポテト、作ってもらえますか」
 街中華にフライドポテト。聞いたことないし、もちろんメニューにも載ってない。
「ジャガイモあるから、待ってろ」
「あと肉野菜炒めもお願い」

「どこまで話しましたっけ」
「文化祭かな」
「男子高校ってどこも凄いアホなんですよ。さっき僕も男子校だったって言ったじゃないですか。もちろんアホです。僕の学校で授業中、隣のクラスから何だかわかんないけど手拍子が聞こえて来たんです。じゃんじゃん、って。そしたら何でかうちのクラスまで訳も分からず全員で手拍子始めちゃって、そしたら隣のクラスまで手拍子してるんですよ。もちろんその隣のクラスも」
「ダチョウみたいだな」
「あ、分かります。ダチョウって一羽が走り出したら訳も分からず周りもついて走り出すんですよね。そんな感じです。ダチョウの脳ってクルミ以下の大きさらしいですよ」
「男子高に入ると脳がクルミになるんだな」
「そんなところです。兄ちゃんの前の学年がやらかして、文化祭が縮小されそうだったんです。後夜祭に相当デカい打ち上げ花火を根回しなしにぶちかました。男子高は歯止めがかからない。アホだから」
 麻婆豆腐が来た。信じられないことに石鍋だ。溶岩の様に赤く沸騰している。そして山椒が入ったペッパーミルまでついてきた。佐藤は表情一つ変えずに口に運び、マジだなこりゃ、と呟いた。

「住宅密集地の中の学校だから花火類だけは厳禁なのにロケット花火までやらかした。縮小は致し方ないとみんな思ってたらしいです。でも兄ちゃんは色んなところに手をまわしまして、何とかできることになりました。おまけに後夜祭にちっちゃいけど焚火までやることになっちゃった。キャンプ好きな教師をたきつけたんです。予算に菓子折り代入れこんで、兄ちゃんが一人で周りの家を菓子折り持って廻りました。そしてそのキャンプ教師が狙っている音楽教師を口説くに最高な場面を作る事を約束したんです」
「男子高に女性っているんだ」
「兄ちゃんのところは音楽の先生と保健室の先生でしたね」
 佐藤は麻婆豆腐をすくった自分のレンゲに山椒をかけながら言った。
「話変わりますけど、僕、高校の時に保健の先生、すげぇかわいいって思ってたんですよ。でも卒業したらたいしたことなかったです。いい人でしたけど。身近な女の人に興味とか関心って生まれますよね。高校生ってそこまで異性への目が養われてないし。男子校とか女子高ならなおさらじゃないですか。だから先生と生徒ってやっぱまずいと思いますよ。女子高とかにいますよね、先生と生徒。まあ、卒業して大学行ってその後ならわからないでもないですけど」
「目が養われていなくて、選択肢が限られている状況で先生がマウント仕掛けるようなもんだからな」
 佐藤はまだ残っていた青椒肉絲を「確かに」と言いながら皿ごとかきこんだ。

「兄ちゃんに口説かれたキャンプ教師が学校側に随分掛け合ってくれたし、文化祭実行委員会も、兄ちゃんのプラン通りに協力した。何らかの形で兄ちゃんに関わっている奴らがみんな協力した。学校全体の生徒の後押しで完璧な告白シチュエーション」
「その教師はどうなったの」
「結婚しましたよ。当たり前じゃないですか。なんでか知んないけど僕まで二次会に呼ばれました」

 店主のおやじさんがフライドポテトを持ってきてくれた。中がふわっとしている。
「これ、コツとかあるんですか?」
「水にさらすのがいいんだよ。でんぷんが何かになるらしくてな。今日、たまたま細切り炒めでも作ろうと思ってさらしてたんだ」
 おやじさんがテーブルを離れた。
「これ、半分ぐらい食べないで残しておいてくださいね」佐藤が言う。
「なんで?」
「まあ、いいじゃないですか。それよりまだ食べれますよね」
 目の前の佐藤の食欲とそして麻婆豆腐の唐辛子の威力でいくらでも食べられる気がする。佐藤が俺の言葉を待たずに言った。
「春巻き四本お願い」

 肉野菜炒めが来た。野菜がしゃきしゃきしているのは当たり前だ。ここのは肉が多い。小間切れが半分ぐらい占めている。それでも野菜は切れ味を保っている。
「兄ちゃん、大学でもうまくやってたんです」
「どこ行ったの?」
「京大。東大より自由奔放の雰囲気ありますよね。高校と近い雰囲気だって入った後兄ちゃん言ってました。どこでも自分で動かないとなんも始まらないって」

 肉野菜炒めを箸で目一杯掴みビールで流し込む。慈愛の様なものが俺を満たした。佐藤が言う。
「大学でも同じ調子で兄ちゃんはやってました。帰省するたびに僕とか父ちゃん母ちゃんの話をよく聞いてくれたし。変わったところはなかった。なんか変だなと思ったのが卒業して商社入ってからですかね」

 外の風は強くなり、窓やドアを揺らす。さっきから客は入って来ない。店の中は俺らと店主のおやじさんだけだ。
「誰もが名前を知っている商社です。入社して最初の懇親会からヤバかった。その辺りから歯車狂っちゃって。細かいところわかんないんですけど、ありえない話がたくさんあったらしくて」
「なにそれ」
「知ってます? 焼きそばハイボールって」
「知らない」
「飲み会にそのチームリーダーがハイボールに焼きそばとか塩とか胡椒とか七味、どばどば入れて『これ、誰が飲むんだ?』って言うんですよ。そしたら一番下っ端がすぐ飲み干すんです」
 俺の目に店の「五目あんかけ焼きそば」という札が目に入った。
「ありえないですよね。でも総合商社ってそんなところ多いみたいっす。他にもあって、山手線乗りますよね。そのリーダーとかが言うんですよ、『脱げ!』って。さすがに上半身だけですけど。そしたら今度は『登れ!』『渡れ!』って」
「渡れって、何?」
「座席の上の網棚あるでしょ。そこに登るんですよ、下っ端が。で、網棚ってドアのところで途切れますよね。そこを下の奴らが支えられて網棚から網棚へ渡らせるんです。昔はそれを全裸でやらせてたらしいですけど。さっきの焼きそばハイボールとか網棚に登るやつが出世するんです」
 俺は黙った。喉に得体の知れない黒いものが詰め込まれた気分だ。人に何か強制させられるだけでもしんどい。誰が楽しいのだろうか。

 佐藤が言う。
「その企業にあるカルチャアって、このご時世でも業績良ければなかなか変わらないです。上司とキャバクラ行きますよね。兄ちゃんは相変わらずキャバクラのお姉ちゃんの話を丁寧に聞きます。そうなるとお姉ちゃんとその場限りとは言え関係性が生まれるじゃないですか。そこに上司が割って入ってその子の『おっぱい揉め』とかいう訳です。兄ちゃん、そういうのでだめになっちゃったんですよ」
 俺が言った。
「おやじさん、焼きそば一つね」
 佐藤が少し驚き、笑いながら「このタイミングで焼きそばですか」と言う。俺は答えた。
「焼きそばをここで弔いたい」
 佐藤は楽しそうにビールを飲んだ。

 春巻きはタケノコと豚肉が熱い餡に包まれ、それがぱりぱりの皮に巻かれている。下手に口に運ぶとやけどをする。それでも待つわけにはいかない。餡の水分が皮に移ってしまう。
 佐藤は淡々と続ける。
「その頃僕は学生で実家にいて、兄ちゃん祖師ヶ谷大蔵で一人暮らししてたんですけど、なんか連絡取れない。でも、心配はしてなかったですね。土曜の昼間、連絡もしないで気楽に部屋行ったんですよ。鍵かかっていないドア開けたらお決まりのごみ屋敷です。奥でカーテン閉めて真っ暗な部屋の中で兄ちゃんモニターに向かってゲームやってるんです。ビビりましたよ。暗闇に兄ちゃんの顔が青白く照らされてるんです。玄関からゴミ袋の山。一応まとめられてるから床は歩けるんですけど」
 俺は興味を持って聞いてみた。
「何のゲームやってた?」
「なんでですか」
「普通、まともな奴が部屋にこもってやるのはロールプレイングとか、アドベンチャーゲームだろ。でも兄ちゃんは本当に人と関わりたくなくなった気がするんだ。だからシューティングゲーム。適当だけど」
「さすが元引きこもりですね。シューティングゲームでした。それも僕達が生まれる前に流行ったインベーダーゲーム。ひたすらエイリアンやっつけてました。何日も風呂に入ってない臭いがしてむちゃくちゃ臭かったです」

 五目あんかけ焼きそばが来た。麺が固めに炒められ、少しおこげがある。柔らかい部分と両方楽しめる。あんは死ぬほど熱い。一つしかないうずらの卵を食べようと箸を伸ばしたら、かなりの勢いで佐藤がさらった。でも俺にはえびとイカがある。

「話しかけたら、ぼんやりこっち見るだけ。僕も横に座って兄ちゃんのインベーダー見てたんですよ。その時、宅配便来てチャイム鳴ったんです。兄ちゃんパニック起こして。でも身体うまく動かせなくて、ごろごろ転がりながらゴミ袋に頭突っ込んじゃった。これ見て兄ちゃん本当にやばいなと。チャイムでビビるのは先輩と同じですね」

 瓶ビール欲しいなと思ったらおやじさんが勝手に栓を開けて持って来た。    
 佐藤と俺のグラスに注いでくれた。
「酢豚ください」俺が言った。
「黒酢だけどいいかい?」
「あ、それがいいです」
 佐藤が言う。
「それから牛カルビと山芋のオイスターソース炒めもお願い。僕、結構大食いなんですけど、先輩もやりますね」
 この店が信じられないほど旨いのと、どこからか抜け出す話はエネルギーがいる。

「ご両親、驚いたんじゃないのか」
「前もって電話で説明していたんですけど、アパート来て兄ちゃん見た時には固まってました。でも、すぐに父ちゃんがタックルするように抱きしめたんです。で、母ちゃんが二人の手を取って家に優しく引っ張って行きました。僕、ここでちょっとだけ泣きました。僕らの兄ちゃんがこんなになったけど、こんな有様になっても死なないで家に帰って来てくれただけでよかったって考えたら。だから泣いたと言っても半分ぐらいうれし泣きです」
 佐藤は相変わらず淡々と話す。
「今、気が付いたんですけど、最初にラーメン食べた後に俺たち汁麺食べてないですよね。やっぱ汁麺食べながら話すって微妙ですよね」
「なんかそんな小説あったな」

 牛カルビと山芋のオイスターソース炒めが来た。脂の乗った牛肉は強火で中まで火を通され、芳ばしさが増している。その上に胡麻が振られ、香りだけでも二つ楽しめる。山芋はそのシャキシャキ感で牛肉の脂をうまく中和する。
「兄ちゃんとにかく臭かったんで、とりあえず風呂に入れて部屋に寝かせました。そこから自分の部屋に引きこもりですね。風呂は深夜、夕飯は一緒に食べます。後は夜中に冷蔵庫とかから自分の部屋に食い物持って行ってました。会話はありません」
「一言も喋れないのか?」
「そうですね。頷いたりはするんですけど」
「失語症ってやつか?」
「失語症はくも膜下出血とかで脳の機能が失われたやつで、ストレスが原因なやつは失声症って言うらしいです」
「そのストレスが原因の商社はどうしたんだ?」
「最初は色々考えました。兄ちゃんこんなにして。でも兄ちゃん死んでないし。前に飲み会であった中の人が上手くやってくれて無断欠勤分を有休とかにしたり。だからそれ以上会社に対してなんもしてないです」

 黒酢酢豚が来た。大ぶりの豚肉がごろごろしている。普通の酢豚はピーマンやパプリカなどが入っているが、黒酢酢豚は豚肉だけだ。味も濃厚。野菜がないから余計な水分が出ない。不味い酢豚は湿っぽい。その対極にある。というか、これも街中華のレベルからぶっ飛んでいる。
 テーブルの上には半分残したフライドポテトがそのままになっている。
「兄ちゃんは外に出ない生活になりました。うちはまあ、お通夜です。会社の中の人に聞いたら、兄ちゃんには焼きそばハイボールみたいな話がごろごろありました。でも僕は兄ちゃんがそんなところから脱出してくれたことだけでよかったです。そんな事考えていたら、父ちゃんが言い出しました」

『兄ちゃんが今まで俺たちを何とかしてくれた。俺たちの兄ちゃんだった。今度は俺たちの番だ。でも今は俺たち何も出来ない。だからあいつが動くまで待つしかない』

「これ、結構難しいです。このまま四十年引きこもりかもしれないじゃないですか。兄ちゃんは周りの人によく言われてたんです。世界の紛争地域とか、荒れた国会に投げ込めば上手くまとめるって。世界が欲する男だって。そんな男が引きこもりですよ。あんなにタフな人が何にどんな形で撃たれたのか」

「ご両親はその後大丈夫だったの?」
「ある時母ちゃんが言うんです。グリーンマイルって映画わかります?」
「トムハンクスが主演のやつだっけ?」
「そうです。重要な役の黒人がデカくて優しい奴なんですけど、人種差別とか見た目で死刑囚にされちゃう。そいつは特殊な能力持っていて、人の病気を自分に取り込んで吐き出す事が出来るんです。兄ちゃん、会社でいろんな人のいろんなもの吸い込んで、吐き出せなかったんじゃないかって母ちゃん言いまして」
 佐藤はぬるくなった瓶ビールを俺のコップに注いだ。

「そしたら父ちゃんがやばくなりました。母ちゃんのグリーンマイルの話で自分が昔から負担掛けてたんじゃないかって。何日か後に、父ちゃん車運転してて、取り締まりかなんかで警官が二人寄って来たんです。結果、違反もしてなかったんですが。色々聞いてきて、父ちゃんよく分からなかったから警官助手席に乗せたんです。とりあえず乗ってよって。そのまま車走らせました」
「父ちゃん、そんなエッジの効いた奴なのかよ」
「全然。その話はマジでビビりましたよ。一家離散じゃね?って。もう一人の警官がパトカーで後ろから追っかけて来る訳ですよ。でも警官は自分で乗ってきたわけで、特に違反もしてないし。後ろのパトもサイレンとか鳴らさない。やばい事はない。そのまま十キロ位走っちゃった。その間、父ちゃん歌ってたんです」
「何の歌」
「NHKの『72時間』ってドキュメンタリー知ってます?」
「ファミレスとか、うどんの自動販売機とかに72時間密着して人間模様なんか見るやつだよな」
「あ、そうです。あれ、父ちゃんも僕も好きなんですけど、警官車に乗せた父ちゃん、運転しながらその主題歌ずっと歌ってたんです。泣きながら、松崎ナオの川べりの家」
 佐藤には申し訳ないが、笑いがこみあげる。
「あの歌、番組の最後に聞くと、何だかすげぇ喪失感とそれを埋める何かが生まれる気がするんだよな」
「父ちゃん、その歌の『幸せを守るのではなく、分けてあげる』ってところだけ繰り返し歌ってた」
 俺は黒酢酢豚のたれを吹き飛ばしながら笑った。お父さんは純粋だ。そして助手席に警官を乗せてパトカーに追われながら泣いてるお父さんの姿。俺に湿ったものを感じさせなかった。
「その後どうしたの?」
「むちゃくちゃ説教されたらしいですけど。違反してないし、松崎ナオを歌いながら泣いているおっさんは誰もが持て余します」
「その後、父ちゃんは?」
「警官が助手席にいて、その上で松崎ナオ歌えば少し楽になったんでしょうね。眼がちょっとだけまともになりましたよ」

「兄ちゃんは?」
「しばらく自分の部屋と風呂とトイレと飯の往復でしたね」
 佐藤はぬるくなったビールを自分のグラスではなく、俺のグラスに注ぐ。しばらく冷たいビールは飲めなさそうだ。
「話は出来ないんだ」
「クリニックに連れて行って、いくつか薬もらいました。月一で僕が車で連れて行ってたんです。それがよかったみたいで少し喋れるようになって。車とはいえ外出もいいじゃないですか。それにしても夏にクリニックに行く兄ちゃんの格好がやばかったです。分厚いふかふかのニット帽とマトリックスのキアヌ・リーヴスみたいなサングラス、黒のロングコート。真夏に汗だらだらですよ。何それって聞いたら、これで周りからの視線防ぐとか言うんですよ」
「逆に視線集めるだろ」
「もちろん。待合室で周りからじろじろ見られちゃって。そしたら兄ちゃん『俺、何かみんなから見られてる』とかアホなこと言うし。そのクリニック、癒しとか狙ってデカイ犬うろうろさせているんです。ボーダーコリーとゴールデンレトリバー。そいつら二匹で変な格好している兄ちゃんに寄ってたかってべろべろ舐めて。余計周りの注目集めちゃう」
 ビールを吹いて笑った。この家は佐藤が支えていたんだろう。
 そして俺は深淵に落ち込まされた兄ちゃんの話をなぜか救いの話のように聞いていた。それは佐藤の話の切り口がうまいからなのだろうか。
 たぶん佐藤自身に何かを引き上げる力の様なものがあるのかもしれない。

 佐藤が店のおやじさんに言った。
「唐揚げください」
「お前、まだ食うのかよ」
「先輩もイケルでしょ。何かに向かう時は食った方がいいと思うんですよ。それもがんがん火を使ったやつ」
「佐藤は何に向かってるんだよ」
「もうちょっと待ってください」
「なんだよそれ」
 店のおやじさんは何だか嬉しそうに中華鍋を熱し始めた。鍋からは煙が出始めた。

「一年経ったぐらいかな。夜、僕の部屋の壁にバインバインって音がし始めたんですよ」
「なんだそれ」
「十時から十一時ぐらいの間。一分ぐらい。何か気持ち悪いし、むかついたから四日目ぐらいに家からダッシュして捕まえたんです」
 佐藤は黒酢酢豚の塊肉を二つ一度にほおばりながら言う。
「兄ちゃんの高校のダブルスペアの安野さんが僕の部屋にソフトテニスのボールをぶつけてたんです」
「何で?」
「兄ちゃんの部屋と間違えて。安野さんってすげぇいい人なんですけど、色々抜けたり、ぶっ飛んだりしてるんです。例えばインターハイかかってる試合でラケット忘れたり。プロも出ている大会で安野さんが勝ち上がってけっこう話題になったんです。地元のコミュニティエフエムとか紙媒体から声がかかって。安野さんそれがうれしくて、高校で練習してる時、金網越しに通りかかった知らないじいさんに『俺の事知ってますよね! 俺、ラジオに出たんです!』って」
「そいつはアホなのか?」
「アホですね。安野さんはアホです。でもそれがいいんですよ。あ、さっき授業中に出前頼んだ話ありましたよね、それ安野さん」

 佐藤が店のおやじさんに言う。
「唐揚げに付けるやつって何ですか?」。
 デカい声でおやじさんが答える。おやじさんの声量がさっきと違う。
「うちは粗塩と胡椒混ぜたやつ」。
 最高だ。唐揚げにマヨネーズなんかつけるとマヨネーズの味しかしない。唐揚げへの冒涜だ。粗塩と胡椒はパンチがあるのにニンニクやオイスターソースの味を引き立たせる。
「そのアホの安野はどうしたんだ」
「兄ちゃんがなんかやばいって聞いたらしくて、兄ちゃんの部屋めがけてソフトテニスのボール投げてたんです。降りてこないかなって。間違えて俺の部屋に」
「いいアホなんだな」
「そうです。安野さん来てるって兄ちゃんに言ったんですけど、会うのはまだ厳しそうでした。でもその後も毎日安野さんはボール投げるんです。僕の部屋に」
 つまみのザーサイとビールを緩く吹いた。
「さっきから汚いですね。兄ちゃんには『あれ安野さんがやりたいからやっているだけだから』って言いました。安野さんと言えども兄ちゃんがそれに付き合う必要はないじゃないですか。でも今度はスピッツで来ました」
「スピッツ?」
「バンドのスピッツ。チェリーって曲知ってます?」
「それ『愛してるの響きだけが』ってやつだろ」
「そうです、それサビですよね。安野さん、毎晩チェリーを家の前で歌うようになったんですよ」
「なんでチェリーなの?」
「高校の時、カラオケで安野さんがたくさん歌ったらしくて」
「相当な自己満足じゃないか。佐藤も大変だったな」
「大変なのは安野さん、サビ歌わないんですよ。さっき先輩が歌ったところの直前でやめるんです。延々とAメロだけです。スピッツの草野マサムネは早くサビを聞かせたいからBメロなくしてAメロから直でサビにしたのに、サビに行かない。チェリーのAメロってサビに持って行く流れが強い歌です。その後を聞かせてくれない。ストレス溜まります。でも歌ってるの安野さん。毎晩もどかしいってもんじゃないです」
 真夜中の住宅街に響く、サビがないスピッツのチェリー。

「兄ちゃんが僕と外に出るって言いだしたんです。その格好がクリニックに行くときのニット帽とマトリックスのサングラスと黒のコート。それを身にまとって一年振りに自発的に外に出る兄ちゃん。わかります? 僕の緊張感」
「俺、今、緊張してるぞ」
「兄ちゃんの不安感も半端なかったはずです。兄ちゃんが玄関からでました。その恰好を見た安野さんが『お前、なんだそのサングラスとコートは。マトリックスかよ。そういえば、救世主はネオじゃないぞ? 最後のレザレクションズ、救世主はトリニティだったからな』って。そしたら兄ちゃん、結構デカい声出したんですよ。『お前、信じらんねぇ、そこ言うのかよ、ネタバレにもほどがある、レザレクションズ、俺、それまだ見てねぇんだよ』」

 佐藤は瓶に僅かに残ったビールを僕のコップに注ぐ。
「安野、最高だな」
「兄ちゃん一年ぶりぐらいのでかい声です。涙腺緩んでやばかったですね。安野さんがいると上手く転がるんですよ。ボヘミアン気質があって色んな仕事を渡り歩いているんですけど、どこでもすぐにマネージャーとか責任者になっちゃうらしくて。その時は近くのファミレスの店長やってました。兄ちゃんと僕はリハビリとして深夜に安野さんのファミレスに行く事にしました。最近のファミレス、深夜は空いているんですよね。安野さん、大抵僕らのテーブルに来てくれました」
「今ファミレスって人手が不足してるのに安野は大丈夫だったのか?」
「上手くやったんでしょうね。配膳のネコロボットが他の店よりむちゃくちゃ多いんです。普通一店舗に二台ぐらいですよね。六台ありました」
 俺はネコロボットが渋滞しているのを想像して楽しくなった。

「僕らのテーブルに長い時間いるんです。でも兄ちゃん、まだ本調子じゃないからほとんど黙っているんです。ぶ厚いニット帽とマトリックスサングラス、そして黒のコートで」
「安野は何話すんだ?」
「ナイチンゲールのおぼえがきって知ってます?」
「知らない」
「僕も最近知ったんですけど。お見舞いに来る人が患者を元気づけようと、テキトーな励ましとか根拠ないアドバイスしたり、患者の今後を心配する事とか言うじゃないですか。あなた、まだあの子小学生じゃない、残されるようなことになったらどうするの?とか、他にいい治療法があるって聞いたわよ、とか。ナイチンゲールがそれやったらぶち殺すって書いてるんです」
「ナイチンゲールがぶち殺すとか言うのかよ」
「それは盛りました。そんなの話をする奴の自己満足だって」
 俺もそれは何となく理解できた。俺のところはクソ田舎だ。暇なやつらがここぞとばかりに両親に大丈夫か?、私、いい先生を知っているよ、あの子はこの後どうするんだ? などの言葉を投げかけた。両親はこわばった笑顔でそれを受け止める。私は心配してやっている、見舞いに来てやっている、だから私はいい人だし、これで義理は果たした。責任はない。そんな奴ら。

「安野さん、毎日自分がいかに楽しかったか、ほとんどそれしか話しませんでした。暇な時にネコロボットで相撲取らせようとしたけどダメだったとか、イタリア人の団体がドリンクバーに群がってその場で飲み干す景色は壮観だったとか」
 SNSも同じかもしれない。何かを強いる話や反省する話は誰もついてこない。楽しい話だけが皆を引き寄せる。
 下を向いて相手に何かを強いる話など誰もついてこない。

 おやじさんが唐揚げを持って来た。衣のカリカリの中から熱い肉汁が溢れる。粗塩と胡椒を混ぜたものを少しつける。味が立体的になる。佐藤が杏仁豆腐と胡麻団子を頼んだ。

「ある時兄ちゃんが小さい声で言うんです。『なんの小説かで読んだんだけど、人生、ビスケットの缶とか言うだろ。いろんなのが混ざって入ってるやつ。俺、おいしいやつ先に食べちゃったんだよな』って。俺の大好きな兄ちゃんの今までの輝かしい生活。そこから昼は部屋からでない深夜の生活。胸から鼻の奥にグワーッて来ちゃった」
 佐藤は少し息をついて続けた。
「そしたら、安野さんが言うんです。『お前、なに村上ショージ気取ってんだよ』って。わかると思いますけど、それ書いたの村上春樹」
 俺は佐藤の想いから安野の村上ショージまでまとめて受け止めてしまった。腹が痙攣している。
「兄ちゃんも『村上ショージと村上春樹だとえらい違うな』って笑うんです。その時あのファミレスは慈愛に満ちた光が差し始めてました。でも兄ちゃん、少し笑いながら『まあ、今の俺なんてこのポテトみたいなもんだから』ってテーブルにある、冷めてしなびたフライドポテトを指さすんですよ」
 自分の事をしなびたフライドポテトと言うのは自己憐憫以外なにものでもない。でも、兄ちゃんの様な人に言わせるようにさせたシステムがこの社会にある。

「安野さん、黙って皿に半分残ったフライドポテトをどっかに持って行ったんです。すぐに戻ってきて、『これ食ってみろ』ってデカい声で言うんです。皿にはさっきのフライドポテトが揚げなおしてありました。熱々です。兄ちゃんと二人で食べたんですけど、カリカリですげぇ旨いんですよ」
 佐藤は俺たちのテーブルにあった冷めきったフライドポテトをおやじさんに揚げなおしてもらった。ほくほくは少なくなったが、カリカリで旨い。
「安野さんが『これもありだ。お前勝手にしなびてるんじゃねぇ』って」 
         
 それは今の俺だ。地域の進学校に進み、成績優秀。しかし大学がどこもかすらなかった。引きこもり、逃げるように東京に出て、適当な会社に入る。適当な営業をし、適当な納品をする。うつ病などの精神疾患は一度割れたグラスに例えられる。落ち着いて寛解してもストレスがグラスに注がれると一杯になる前にこぼれてしまう。閾値が下がる。だから仕事に熱量は加えず、部屋に帰っても漠然と生活する。自分を勝手にしなびたポテトだと思っていた。
 しかし、揚げなおしってどうすればいいんだろうか。それとも揚げなおしたところで俺は何とかなるのだろうか。でも俺はマクドナルドのポテトで復活した。マクドナルドのポテトも熱い油で揚げられる。

「そんな深夜のファミレスを1ヶ月ぐらい繰り返しました。ある日、夜中にファミレスから帰る時、安野さんが『今日は俺もこれで上がる』って一緒に帰ったんです。真冬で空気が乾燥しきっていて、星がめちゃめちゃ綺麗に見えました。遠くの電車の音がよく聞こえて」
 佐藤はポテトを一本手でつまんだ。

「安野さんがこっちの公園行こうぜって言うからついていったんです。そしたら十五人ぐらい野郎がたむろしてて。やばい雰囲気だから兄ちゃんの手を引いて戻ろうとしたんです。そいつらがわらわら寄って来るんですよ。やばいな、安野さんケンカ強かったっけ、とか考えてたら、それ、兄ちゃんの高校の時の奴らなんです。安野さんが声掛けて集まってたんです。テニス部の部長とか、学祭実行委員の奴らとか。あ、兄ちゃんが結婚させた先生もいました。何だか毎日嫁に怒られてるとか言ってましたけど。みんな兄ちゃんの肩とか背中とか、ばしばし叩くんです。お前元気か? うつ病? 外出てるのか? 部屋でオナニーしまくってる? 俺はしてるぜ? なんでお前キアヌ・リーヴスなんだ? 仮想現実から出るのか? 弟ちゃんに彼女はいるのか? とか。十五人がわーって話しかけてました。うつ病とかオナニーとか仮想現実って言われたときはかなりビビりましたけど、兄ちゃんは大丈夫でした」
 俺は引きこもりと仮想現実は相似なのかもしれないと少し考えていた。

「いい奴らだな、ここで深い絆ちらつかせて親身になられてもしんどいだけだからな」
「ですよね。そいつらが兄ちゃんにそんな話をするのは一瞬で終わりました。深掘りしなかったです。ベンチ見たら山用のバーナーでみんなのカップラーメン作ってる奴がいるんですよ。十五個ぐらい。でも一度に二個分しかお湯湧かないからむちゃくちゃ時間かかる。おまけに『箸忘れた』とか言う。木の枝拾って箸にしたり、手で掴んで熱いっていったり。馬鹿の集まりです」
 彼らは適当に雑談して帰ったそうだ。
 浅くて緩いつながりが呼吸を深くさせる。

「さっきのナイチンゲールの話あっただろ。患者になに話せばいいんだ?」
「先輩鋭いですね。ナイチンゲールは見舞いに来た人は自分の楽しい話や嬉しかった話とかそんな話をしろと。だから安野さんも高校の同級生もナイチンゲールの弟子みたいなもんです。ただ、深夜のスピッツは微妙ですけど」

 窓の外は細かい雪が舞い始めている。それが時折強くなる。
「兄ちゃん、そこから時間はかかりましたが、少しずつ外に出始めました。かなり良くなった時、安野さんと僕ともう一人で車でキャンプ行ったんです。帰るときに安野さんはもう一人を忘れて一時間以上走りました。安野さんのスマホは電池がなくて、兄ちゃんと僕は爆睡してました」
「実に順調だ」
「まあ、そうですね。就職活動も始めたけど、二年のブランクができちゃった。そこをどの会社も突いてくるらしいです。何してたんですかって。そこで病気の事とか話すと確実に落ちる。京大出身が落ちるんですよ。一度引きこもった奴はまた引きこもるかも知れないって」
「この国、敗者復活って難しいんだよな、敗者じゃないんだけどな」
 俺は自分の事を話している。敗者復活など考えた事も無いのに、自分になぞらえて言っている。そして佐藤と話をしているうちに兄ちゃんが俺の希望になっていることに気が付いた。

 おやじさんが杏仁豆腐と胡麻団子を持って来た。おやじさんが言う。
「胡麻団子を先に食べる方がまともだが、どっちを先に喰おうが後に喰おうが旨いものには変わらないからな」

「兄ちゃん今どうしてるの?」 
「実はですね、それが今日の本題です」
「何それ。兄ちゃんは壮大な振りなのかよ」
「兄ちゃんと何人かで施設向けの介護記録システム作ってまして。介護記録システムって結構高いんです。実際使わない機能も標準装備されてて。でもベッドセンサーとかの介護ロボットと組み合わせれば、介護士の負担も減る。人手不足も解消する。兄ちゃんのやつは小回りが利いて小規模から大規模施設までカバー出来る。端末もiphoneとかの指定が無くてやっすいandroidで十分。これ、ランニングから言うと大事なんです。ナースコールと電話システムとの連携も安くできる。でもうまい売り方が出来てない。だから先輩と僕でそこ行きません? プランニングとかマーケとか営業とか」
「それ全部じゃん」
 いきなりそんな話になったが、悪い気はしなかった。そこには何かがあるはずだ。そうじゃない。何かを生み出せる場所があるはずだ。

 おやじさんに会計をお願いした。
「なかなかいい話を聞いたから、今日はいいよ」
「何言ってるんですか。俺たちめちゃくちゃ食いましたよ」
 おやじさんが言う。
「俺の甥が引きこもってちょうど一年ぐらいになるんだ。小さい頃は一緒に野球やったり神宮球場に行ったりしてたんだが。今は親がどうにも手が出せないらしくてな。あいつがこのまま部屋で、なんて言うんだ、朽ちていくのを見てるのがしんどくてな。でも、今日なんか明るい話を聞いたからな」
 少し考えて佐藤が言った。
「おやじさんが安野さんなんじゃないですか」
 おやじさんは少し黙った。そのおやじさんの姿は湿ったものを感じなかった。たぶんおやじさんはその甥を訪ねて行く事を考えていたのだろう。そして近いうちに行くはずだ。たぶんこの店に連れて来る。何回も連れて来て強火を使った料理を振舞う。それだけで十分だ。
 そして言った。
「じゃあ、そのうち店に来てくれよ。兄ちゃんと安野とか連れて」
 佐藤が言った。
「安野さん、今ネパールなんですよ。この間メッセが来ました。夜中に駅前の何もないところで寝転んでて。寒い寒いって言ったら、現地の人が俺が何とかしてやるって、いきなりそばの立っている木にガソリンぶっかけて燃やしたらしいです。木を燃やすと暖かいなって書いてありました」
 俺とおやじさんはあっけにとられ、その後笑った。おやじさんが言う。
「兄ちゃんは昔、みんなの話を聞いた後に自分が振られて『楽しかったぁ』って言ってたんだろ?今はどうなんだ?」
 佐藤が言う。
「あ、それは言わなくなりましたね。まあ、『いろいろあったけど、私は元気です』ってやつですよ」
 
 お代はとりあえずツケにしてもらった。
 店を出る時には大雪になっていた。おやじさんが傘を貸してくれた。傘の柄が錆びて、何か所か破れている年代物だったがうまく差せば何とかなる。そんなもんだ。

 駅に向かうまでに、俺と佐藤は安野の話をした。靴の中まで雪でびしょびしょになったが気にならなかった。
「マトリックスってどういう意味でしたっけ」
「物事を生み出す母体って感じかな」
「じゃあ、今日のこの店が何かのマトリックスになる訳ですね」
 俺たちは歩きながらオレンジの街灯に照らされて降る雪を見ていた。

「そいえば安野さん、一回兄ちゃんの会社に遊びに来たんですよ。お土産にコンビーフ大量に買って来たんです。べらぼうに安いのを見つけたって。そしてお土産買ってきたはずの安野さんがすげぇうまいって食べ始めたんです。でも缶にでっかく猫がプリントされてました」







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