黒川 正弘

黒川 正弘

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学芸美術 画家の心 第57回「ウイリアム・ターナー 解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号 1838年」

 この絵を鑑賞する前にタイトルに書かれた戦艦テメレール号について説明しなければならない。  この絵を鑑賞する前にタイトルに書かれた戦艦テメレール号について説明しなければならない。  戦艦テメレールは、日本の戦艦に例えるなら大和(もしくは宇宙戦艦ヤマト)と同じくらい、いやそれ以上に英国の人びとにとっては誇りと親しみを持っている艦だ。  因みに、2020年に新しくなった20ポンド紙幣の裏にこの絵が印刷されるほどの人気がある。  その理由だが、1805年10月21日スペインの

    • 学芸美術 画家の心 第56回「ピエール・オーギュスト=ルノワール ポール・デュラン=リュエル 1910年」

      四角い顔にふてぶてしい態度、この男はいったい誰なのだ。しかもしかめっ面で不機嫌そうだ。いかにも面倒臭そうにふんぞり返っている。  四角い顔にふてぶてしい態度、この男はいったい誰なのだ。しかもしかめっ面で不機嫌そうだ。いかにも面倒臭そうにふんぞり返っている。  この人物を描いている画家は我われの知るルノアールだ。そんな有名な画家のモデルになるのだから、もう少し機嫌のいい顔をしてもいいのではないだろうか。  この不機嫌男の名はポール・デュラン=リュエルと言い、近代画商の草分

      •  学芸美術 画家の心 第55回「ウイリアム・ターナー 雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道 1844年」

         なんだこの絵は?  不自然な橋の上を蒸気機関車が爆走している?   機関車の先頭の白と赤色は何だ? ヘッドライトか?  煙突から出る煙は…、横に流され峡谷の下へと流れている?  左にも橋が架かっている。  背景の空もだが絵全体がぼやけ、何が何だかよくわからない。  画集の解説には、テムズ川に架かるメイデンヘッド鉄道橋を渡るグレートウエスタン鉄道で、嵐の中を爆走る雄姿を描いたとある。  そして、ターナーは機関車の石炭を入れる炊き込み口を前面に描いた。  煉瓦橋の橋げたは奇

        •  学芸美術 画家の心 第54回「アンディ・ウォーホル マリリン・モンロー Shot Sage Blue Marilyn  1964年」

           アンディー・ウォーホルは1960年代、アメリカにおけるポップアートの旗手として評価されていた。  そして、シルクスクリーンという印刷技術を使ってこのような作品を大量に制作し、多額の収入を得ていた。    そして事件が起きた。  アンディーの友人がやってきて4枚重ねて置いていたこの作品に「Shot」してもいいかと尋ねた。  アンディーは当然のように「OK」した。アンディーはカメラで写真を撮るShotだと思っていた。  しかし、友人は本物のピストルでこれら4枚の絵をSho

        学芸美術 画家の心 第57回「ウイリアム・ターナー 解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号 1838年」

        • 学芸美術 画家の心 第56回「ピエール・オーギュスト=ルノワール ポール・デュラン=リュエル 1910年」

        •  学芸美術 画家の心 第55回「ウイリアム・ターナー 雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道 1844年」

        •  学芸美術 画家の心 第54回「アンディ・ウォーホル マリリン・モンロー Shot Sage Blue Marilyn  1964年」

          学芸美術 画家の心 第53回「ウィリアム・ターナー ヴェネツィア、ドガーナから見たサン・ジョルジョ島、日の出 1819年」

            この絵を見た瞬間、タイトルからして間違いなく印象派の絵だよな。何も知らず、何も考えずにこの絵を見れば、印象派の画家が描いた絵としか思えない。  ターナーは1775年イギリス ロンドンに生まれ、子供のころより絵が得意で、25歳という若さでロンドンアカデミーの会員となるイギリス屈指の名画家だ。  ターナーは田園風景や海の景色を描くのに輝かしい色彩を用い「光の画家」と呼ばれた。  この絵はヴェネツィア サン・ジョルジュ島の日の出を描いたものだが、「日の出」といえば、モネの

          学芸美術 画家の心 第53回「ウィリアム・ターナー ヴェネツィア、ドガーナから見たサン・ジョルジョ島、日の出 1819年」

          学芸美術 画家の心 第52回「バンクシー 赤い風船と少女 2002年」

           愛らしい少女の手から赤い風船が離れたのか、それとも女の子は赤い風船を取ろうとしているのか、見る人の気持ち次第でどちらにも受け取れる。  この絵は2017年、イギリス人の好きな絵画で1位に選ばれ、ある事件を切っ掛けに人びとの話題にもなった。  その事件は2018年に起きた。場所はサザビーズのオークション会場。  この絵が1億5千万円で落札れると、額縁の下に仕込まれていたシュレッダーが働きだし、絵の下半分が切り裂かれたのだ(下の写真)。  会場は悲鳴が飛び交い大騒ぎとなっ

          学芸美術 画家の心 第52回「バンクシー 赤い風船と少女 2002年」

          学芸美術 画家の心 第51回「レッサー・ウリィ 夜のポツダム広場 1920年代半ば」

           2021年11月コロナ禍の中、三菱一号館美術館で「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜―モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン」展が開かれが、その中でレッサー・ウリィ はほとんど注目されていなかった。  わたしもコロナ禍でもあるし、東京まで出むこともなく、注目していなかった。  ところが、蓋を開けるとモネやゴッホの絵よりウリィの絵の前に人だかりができ、初日にして絵葉書が完売し、さらにSNS等で話題が沸騰した。  ところでウリィ(Ury)だが、レッサー・ユリィと紹介される

          学芸美術 画家の心 第51回「レッサー・ウリィ 夜のポツダム広場 1920年代半ば」

          学芸美術 画家の心 第50回「葛飾 北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 天保2~5年(1831~34)刊

          日本人の好きな日本人画家のベストファイブは、 1位 葛飾北斎 2位 歌川広重 3位 東山魁夷 4位 伊藤若冲 5位 横山大観 であり、6位以下は、棟方志功、竹久夢二、山下清、北川歌麿、東洲斎写楽と続く。 次に日本人の好きな日本の絵画は、  1位 葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」  2位 歌川広重「大はしあたけの夕立」  3位 竹内栖鳳「班猫」  4位 横山大観「生々流転」  5位 東山魁夷「緑響く」 となっている。調査方法によりいろいろなデータがあると思うが、画家も

          学芸美術 画家の心 第50回「葛飾 北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 天保2~5年(1831~34)刊

          学芸美術 画家の心 第49回「歌川 広重 名所江戸百景 大はしあたけの夕立 安政4年(1857)刊」

          広重といえば各地の名所を描いたことで有名だ。 そして浮世絵といえば、北斎の富岳三十六景と広重の東海道中五十三次を思い出す。 広重といえば各地の名所を描いたことで有名だ。 そして浮世絵といえば、北斎の富岳三十六景と広重の東海道中五十三次を思い出す。 今現在でもふたりの風景画は私たち日本人に特に親しまれている。 しかしこのこの当時(1700年代中頃から1800年代初頭)の浮世絵は、美人画が一番、二番は役者絵、三番は武者絵と決まっていた。 風景画は美人や役者を目立たせるため

          学芸美術 画家の心 第49回「歌川 広重 名所江戸百景 大はしあたけの夕立 安政4年(1857)刊」

          学芸美術 画家の心 第48回「エドゥアール・マネ ボートのアトリエで描くモネ 1874年」

          この絵はいったいどこがいいのだろうか。よくわからないまま長い年月が過ぎてしまっていた。 しかし、この学芸美術で模写を始め、モネやマネ、他の多くの有名な画家の素晴らしい絵を模写することで、画家の人となりやその時代背景、画家自身の心の内を伺い知るようになった。 今では誰もが知る印象派の雄であるモネだが、この当時のモネ(26歳)は世に知られることなく貧乏絵描きであり、この船をアトリエとして使い、川面に映る光の移ろいや揺らめきを写し取っていた。 一方のマネ(34歳)はモネの筆致

          学芸美術 画家の心 第48回「エドゥアール・マネ ボートのアトリエで描くモネ 1874年」

          学芸美術 画家の心 第47回「クロード・モネ ひまわり 1881年作」

          モネは戸外での日の移ろいやその時の情景を描くことを得意とし、静物画は描かなかった。 ところが1879年モネ39歳のとき、最愛の妻、カミーユが永眠するという彼にとってはもっとも辛い悲劇が襲う。 モネは愛する妻を亡くすとアトリエに籠(こも)り、戸外での写生に出かけなくなる。 この「ひまわり」はそんな逼塞(ひっそく)期間中に描かれたもので、モネの静物画としては貴重な作品といえる。 この作品経てやがてこれまでのように戸外での写生に出かけ、凍結したセーヌ川を描く。 我われの知

          学芸美術 画家の心 第47回「クロード・モネ ひまわり 1881年作」

          学芸美術 画家の心 第46回「トゥールズ・ロートレック 赤毛の娘 1889年作」

          ロートレックの本名は、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールズ・ロートレック・モンファという。まるで落語の寿限無に出てくる長及名の長介のようだ。 ロートレックはフランス南部トゥールズ地方に領地を持つ伯爵家の出身で、とても裕福な家系に育った。 ところが、8歳の時左足を、続いて右足を骨折し、それが原因で両足とも伸びなくなってしまい、身長138センチメートルで成人した。 気位に高い貴族の出だ。父親からも罵(ののし)られ、自分の姿をどれほど呪(のろ)ったことだろうか。 それを母

          学芸美術 画家の心 第46回「トゥールズ・ロートレック 赤毛の娘 1889年作」

          学芸美術 画家の心 第45回「安井曽太郎 薔薇 1932年作」

          安井曽太郎と梅原龍三郎は同じ1888年京都に生まれ、同じ聖護洋画研究所に通う同級生だ。 安井は19歳で、梅原より1年早くパリのアカデミー・ジュリアンに留学する。サロン・ドートンヌでセザンヌの遺作に遭遇するが、その本質が何なのかを理解できなかったそうだ。 安井はこの時の衝撃からセザンヌを師と仰ぎ、目標となる。 26歳の時、肺炎が悪化しいったん帰国する。病気は平癒したが、その後うまく絵が描けなくなったそうだ。 それはなぜなのだろうか。 日本の若手画家がパリに留学し、帰国す

          学芸美術 画家の心 第45回「安井曽太郎 薔薇 1932年作」

          学芸美術 画家の心 第44回「梅原龍三郎 黒薔薇 1940年作」

          梅原は1908年若干20歳でフランスに留学し、リュクサンプール美術館でルノワールの絵を見、自分の絵はこれだと心に決める。 翌年ルノワール宅を訪ねると弟子入りを認められ、その後五年間師事した。 もともとあった豪快な色使いと筆使いにさらに磨きをかける。 師匠のピンクに対して、梅原は鮮やかな赤を得意とした。 このときルノワールは、 「君は色彩を持つ。デッサンは勉強で補うことができるのだが、色彩はタンペラマン(気質)によるものだ、それがあるのが甚だいい」 と褒めた。 梅原の生

          学芸美術 画家の心 第44回「梅原龍三郎 黒薔薇 1940年作」

          学芸美術 画家の心 第43回「梅原龍三郎 薔薇 1938年作」

          梅原は古物に大変興味があり、中国に旅行した時にこの壺(万暦(ばんれき)赤絵(あかえ)壺(つぼ))が大そう気に入り購入したそうだ。そして帰国後、大好きな薔薇を生け、この絵を描いた。 梅原の代表作として、裸婦像、薔薇(ばら)、富士、浅間山などがあるが、この薔薇絵は梅原が50歳になり、成就期に入り描かれた一枚だ。 この絵をよく見ると豪華な薔薇たちが貧弱に見えるほどこの壺は何ら劣ることなく、大きく胸を張り威風堂々とした存在感を示している。 画題は「薔薇」となっているが、梅原自身

          学芸美術 画家の心 第43回「梅原龍三郎 薔薇 1938年作」

          学芸美術 画家の心 第42回「エドゥアール・マネ 黒い帽子のベルト・モリゾ 1872年作」

          一見印象派の絵のように見えるが、エドゥアール・マネは若手画家の旗手モネらが創設した印象派には属さなかった。 マネはモネが自分の絵を真似し、名前まで真似たと思い込んでいた時期があるほどだ。 そんなこともあったが、マネは印象派のモネやルノアールとは個人的にも親しく、モネより8歳、ルノワールより9歳年上で兄貴的な存在だった。 マネは金持ちのプロレタリアートの出身で、印象派で認められるより権威の象徴であったサロンでの入選を強く望んでいた。これはまったくの邪推(じゃすい)なのだが

          学芸美術 画家の心 第42回「エドゥアール・マネ 黒い帽子のベルト・モリゾ 1872年作」