黒川 正弘

黒川 正弘

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画家の心 美の追求 第82回「ギュスター・クールベ ノルマンディーの海岸 1872-75年」

 ギュスター・クールベ は、バロックからロマン主義へ、そしてレアリスム(フラン語読み、英語ではリアリズム)へと大きく時代を動かした偉大な画家のひとりだ。  レアリスム、日本語では「写実主義」と解され、わたしたち日本人にとってもっとも馴染み深い画法のひとつではないだろうか。  ではこの写実主義を最初に提唱したクールベとは、どんな画家だったのだろうか。  クールベは1819年南フランスの山深い、スイスとの国境に近いオルナン村の裕福な家庭に生まれた。1841年21歳でパリに出て

    • 画家の心 美の追求 第81回「ピエール・オーギュスト・ルノワール レースの帽子の少女 1891年」

       前回(第80回)のルノワール作「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」から11年が過ぎた作品でルノワールは50歳になり、絶頂期に入ったといわれるころの作品だ。  今回の話はこの作品から前回紹介した11年前にさかのぼる。サロンに入選し、画家としてデビューを果たし、これから立派な絵を描いて稼ぐぞと意気込んでいた時に伯爵家のダンヴェール家から「イレーヌ嬢の肖像画」の依頼が舞い込んできた。ルノワールは天にも上るほどに嬉しかっただろう。  「イレーヌ嬢」の絵はしっかり画けた自信作だった

      • 画家の心 美の追求 第80回「ピエール=オーギュスト・ルノワール  イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 1880年」

         印象派の絵画の中で最も美しい肖像画とされる「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」、別名「かわいいイレーヌ」と呼ばれており、世界中の人たちから愛されている美少女だ。このときイレーヌは8歳。上流階級の品の良さ、美しさとともに凛とした雰囲気を醸し出している。  そしてこの絵を見て絵描きになりたいと思う人も多いことだろう。  ところが、この絵はイレーヌの母親ルイーズから嫌われ、使用人の部屋の壁に飾られることになる。因(ちな)みにこの絵の依頼額は1500フラン(150万円)で、イレー

        • 画家の心 美の追求 第79回「ヨハネス・フェルメール 真珠の耳飾りの少女1665年頃」

           フェルメールの絵で最も有名で、皆が大好きな絵と言えば、この「真珠の耳飾りの少女」だろう。  ところでフェルメールには多くの謎がある。  例えばこの絵のモデルは誰だろうか。  フェルメールの娘マーリアだというと説があったようだが、今ではそうではなくて、よくわからないそうだ。  もう一つの大きな疑問は、フェルメールは死後しばらくすると名も絵も存在することすら忘れ去られた。そして、フェルメールの再発見は1866年、フランス人研究家のトレ・ビュルガーによりなされた。  ところでフ

        画家の心 美の追求 第82回「ギュスター・クールベ ノルマンディーの海岸 1872-75年」

        • 画家の心 美の追求 第81回「ピエール・オーギュスト・ルノワール レースの帽子の少女 1891年」

        • 画家の心 美の追求 第80回「ピエール=オーギュスト・ルノワール  イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢 1880年」

        • 画家の心 美の追求 第79回「ヨハネス・フェルメール 真珠の耳飾りの少女1665年頃」

          画家の心 美の追求 第78回「フランシスコ・デ・ゴヤ フランシスカ・サバサ・イ・ガルシアの肖像 1806年から1811年」

           ゴヤがエバリスト・ペレス・デ・カストロの肖像画を描いていた。デ・カストロは政治家であり、名家の出身である。  そのとき、「叔父さまこんちわ」と明るい声が聞こえてきた。  ゴヤは声する方に振り向くと美しい娘が立っていた。彼女の名前はフランシスカ・サバサ・イ・ガルシア、通称マリア・ガルシアと呼ばれ、デ・カストロの姪に当たる。  ゴヤは一瞬にしてマリアの魅力に引き込まれ、モデルになって欲しいと願いでた。そして描かれたのがこの一枚だ。  ゴヤは彼女のどこに惹かれたのだろうか。こ

          画家の心 美の追求 第78回「フランシスコ・デ・ゴヤ フランシスカ・サバサ・イ・ガルシアの肖像 1806年から1811年」

          画家の心 美の追求 第77回「アンリ・ルソー 眠るジプシー女 1897年」

           ルソーは「ヘタウマな画家だ」と耳にする。ところで「ヘタウマ」とはどういうことだろうか。  ルソーは税関吏として働く一方で日曜画家として絵を描いていた。仕事の方は何とかやっているようなうだつの上がらない勤め人だった。  ルソーは49歳で早々と退職し、年金生活に入ると絵に専念した。しかし、絵の方もはかばかしくなく、要するにうだつの上がらない絵描きだった。絵の仲間からいろいろとアドバイスを得ていたようだが、それらの忠告はほぼ無視していた。  普通ならそんな態度をしていたら無視

          画家の心 美の追求 第77回「アンリ・ルソー 眠るジプシー女 1897年」

          画家の心 美の追求 第76回「藤田 嗣治 カフェ 1946年」

          模写してすぐに気が付いた。なんておしゃれな絵なんだろう。  藤田がパリにお向いた1913年ころは、印象派からポスト印象派(キュビズム、シュールレアリズムや素朴派など)の画家たちが台頭、活躍していた。日本の美術会は黒田清輝の印象派が席巻しており、藤田はその遅れに愕然とする。  しかも翌年からヨーロッパ中で第一次世界大戦がはじまり藤田の生活は困窮する。  そんな厳しい中で、日本画で使う細い面相筆で輪郭線を引き、白い肌を持つ独自の女性像を描き出し、フランスの人びとを魅了した。それ

          画家の心 美の追求 第76回「藤田 嗣治 カフェ 1946年」

          画家の心 美の追求 第75回「レンブラント・ファン・レイン ゼウクシスとしての自画像 1669年」

           レンブラントは1606年オランダに生まれ、同じオランダ人のフェルメール(第74回)より26歳年上になるが、その名声は圧倒的にレンブラントにあった。  レンブラントは「光と影の画家」、または「光の魔術師」と呼ばれるほど絵具の使い方や絵の構成などに優れ、バロック時代を代表する大天才画家にひとりだ。  彼は若くして名声を得ていたが、それを決定づけたのは「テュルフ博士の解剖学講座 1632年(レンブラント26歳)」だ。テュルフ博士はアムステルダム市長を務めたほどの名士で、彼の講

          画家の心 美の追求 第75回「レンブラント・ファン・レイン ゼウクシスとしての自画像 1669年」

          画家の心 美の追求 第74回「ヨハネス・フェルメール 地理学者 1669年頃」

           フェルメールの人気はいまや日本だけでなく世界中の人たちが大好きな画家のひとりだ。彼の絵の中で一番人気はマウリッツ美術館所蔵の「真珠の耳飾りの少女」に違いない。  頭に青いターバンを巻き大粒の真珠の耳飾りを付け、こちらに向かって魅惑的なまなざしを投げかけている。  青色は宝石の一種であるラビスラズリーを粉にして絵具にしたもので、とても高価なものだが、フェルメールはその絵具を多くの作品に使ったことでも有名だ。  だからだろうか、元のタイトルは「青いターバンを巻いた少女」だっと

          画家の心 美の追求 第74回「ヨハネス・フェルメール 地理学者 1669年頃」

          画家の心 美の追求 第73回「ウジェーヌ・ブーダン ベルク 船の帰還 1890年」

           ブーダン、わたしにとってはまったく見知らぬ画家だった。  第1回印象派展(1874年)に出品し、モネに戸外で写生することを勧めたという。モネより16歳年上であったこともあり、その後に世界的に有名になる若手印象派画家たちを育てた先人のひとりだ。  ブーダン自身はパリのサロンへの出品も続けており、すなわち二足の草鞋(わらじ)を履きながら1889年ついにその念願のサロンで金賞を射止め、1892年(68歳)には国民栄誉賞、いやそれ以上のレジオン・ドヌール勲章を授与された。  ブ

          画家の心 美の追求 第73回「ウジェーヌ・ブーダン ベルク 船の帰還 1890年」

          画家の心 美の追求 第72回「ウジェーヌ・ドラクロワ  民衆を導く自由の女神 1830年」

           オリンピックパリ大会での日本選手の活躍は心踊るものだが、自国民の大声援を受けたフランス選手の頑張りは驚異的と言ってもいいほどだ。  そういう意味での前回の東京大会での日本選手は自国民の応援のない無観客の中で、多大なる重圧だけを背負い戦うことになったこと、はなはだ気の毒であったと今頃になりすまなく感じている。  さて、この絵は縦2.6メートル、横3.3メートルもある巨大な油彩画で、フランス国旗トリコロールをたなびかせ、左手には銃剣付きのマスケット銃を掴んだ乳房をあらわにした

          画家の心 美の追求 第72回「ウジェーヌ・ドラクロワ  民衆を導く自由の女神 1830年」

          画家の心 美の追求 第71回「カミーユ・ピサロ 果樹園 1872年」

           わたしたち日本人だけでなく世界中の人たちが大好きな印象派の絵だが、この会派を立ち上げ発展させた人物はいったい誰だろうか?  印象派という名前の由来となった「印象 日の出」(第1回印象派展)を描いたクロード・モネを最初に思い出すが、実は彼ではなくて、第一に尽力したのはカミーユ・ピサロだ。  1874年4月に実施された第1回印象派展だが、最初の展覧会名は、「画家、彫刻家、版画家などの美術による共同出資会社 第1回展」と称された。  信じられないほど堅苦しくて冗長な名で、当然

          画家の心 美の追求 第71回「カミーユ・ピサロ 果樹園 1872年」

          画家の心 美の追求 第70回「ネアンデルタール人 洞窟壁画 約4万年前」

           ヒトはいつのころから絵を描き始めたのだろうか。少なくとも最初の絵はそれを観賞し愛でるためではなかっただろう。では何を目的としたのか。  歴史学者の多くは食料としての動物がたくさん捕れるようにと祈りこめた、呪術的なものだろうと考えている。  日本で発見された1万年以上前の縄文人が作ったとされる土偶ですら何のために作られたのか、その真の理由はわかっていない。それよりもさらに3万年もさかのぼったネアンデルタールのヒトビトの想いなど、われわれ現代人にわかりようはずもない。  

          画家の心 美の追求 第70回「ネアンデルタール人 洞窟壁画 約4万年前」

          学芸美術 画家の心 第69回「ジョン=エバレット・ミレイ オフィーリア 1851年」

           オフィーリアはシェークスピアの戯曲「ハムレット」の妃候補として登場するヒロイン。  オフィーリアは、ハムレット王子の王妃の指示で美しい花を取ろうとして誤って川に落ち死ぬ。そのときの姿を、ミレイは白い肌の怪しい美しさを有する姿で描いた。  1852年の発表当時は、肌の色が白すぎて気味悪がられたが、やがてその構成の素晴らしさと美しさが称えられるようになり、ミレイの出世作のひとつになる。  ミレー(第68回 晩鐘)と今回のミレイ、同じ人物かと思いきや、ふたりはまったくの別人。

          学芸美術 画家の心 第69回「ジョン=エバレット・ミレイ オフィーリア 1851年」

          学芸美術 画家の心 第68回「ジャン=フランソワ・ミレー 晩鐘 1859年」

           ミレーと言えばこの「晩鐘」か「落穂ひろい」が有名だ。子供のころこの絵を見て、正直いい絵とは思えなかった。暗いし何が描いてあるのかわからないし、貧乏そうだし…。  しかし、学校ではミレーは農夫で清貧画家と習った。確か試験にも出ていたほどだ。  ミレーが上のような評価を受けるのは、ミレーの友人のポール・マンツが「ジャン=フランソワ・ミレーの生涯と作品」という本のなかでミレーを聖書に基づく生活を送りながら絵を描き続けた偉大な画家として紹介した。そしてこの本がベストセラーになり、

          学芸美術 画家の心 第68回「ジャン=フランソワ・ミレー 晩鐘 1859年」

          学芸美術 画家の心 第67回「クリスチャン・リース・ラッセン サンクチュアリ 制作年不詳」

           今から30年程前の日本は、今とは違い国中が光化がやきバブル景気にわいていた。こんな時にキラキラする南海の風景を想像させる絵が日本で大注目された。その絵を描いた画家の名はクリスチャン・リース・ラッセルといい、そんな日本で華々しく登場してきた。  彼はハワイのサーファーで、事業家で、歌手で、俳優で、映画監督もするほどの多芸多才な人だった。子供のころから絵が得意で、Tシャツに絵を描き売っていた。だからだろうか絵はほぼ独学で、若者や女性たちが好むイルカやクジラ、色とりどりの熱帯魚

          学芸美術 画家の心 第67回「クリスチャン・リース・ラッセン サンクチュアリ 制作年不詳」