黒川 正弘

黒川 正弘

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画家の心 美の追求 第76回「藤田 嗣治 カフェ 1946年」

模写してすぐに気が付いた。なんておしゃれな絵なんだろう。  藤田がパリにお向いた1913年ころは、印象派からポスト印象派(キュビズム、シュールレアリズムや素朴派など)の画家たちが台頭、活躍していた。日本の美術会は黒田清輝の印象派が席巻しており、藤田はその遅れに愕然とする。  しかも翌年からヨーロッパ中で第一次世界大戦がはじまり藤田の生活は困窮する。  そんな厳しい中で、日本画で使う細い面相筆で輪郭線を引き、白い肌を持つ独自の女性像を描き出し、フランスの人びとを魅了した。それ

    • 画家の心 美の追求 第75回「レンブラント・ファン・レイン ゼウクシスとしての自画像 1669年」

       レンブラントは1606年オランダに生まれ、同じオランダ人のフェルメール(第74回)より26歳年上になるが、その名声は圧倒的にレンブラントにあった。  レンブラントは「光と影の画家」、または「光の魔術師」と呼ばれるほど絵具の使い方や絵の構成などに優れ、バロック時代を代表する大天才画家にひとりだ。  彼は若くして名声を得ていたが、それを決定づけたのは「テュルフ博士の解剖学講座 1632年(レンブラント26歳)」だ。テュルフ博士はアムステルダム市長を務めたほどの名士で、彼の講

      • 画家の心 美の追求 第74回「ヨハネス・フェルメール 地理学者 1669年頃」

         フェルメールの人気はいまや日本だけでなく世界中の人たちが大好きな画家のひとりだ。彼の絵の中で一番人気はマウリッツ美術館所蔵の「真珠の耳飾りの少女」に違いない。  頭に青いターバンを巻き大粒の真珠の耳飾りを付け、こちらに向かって魅惑的なまなざしを投げかけている。  青色は宝石の一種であるラビスラズリーを粉にして絵具にしたもので、とても高価なものだが、フェルメールはその絵具を多くの作品に使ったことでも有名だ。  だからだろうか、元のタイトルは「青いターバンを巻いた少女」だっと

        • 画家の心 美の追求 第73回「ウジェーヌ・ブーダン ベルク 船の帰還 1890年」

           ブーダン、わたしにとってはまったく見知らぬ画家だった。  第1回印象派展(1874年)に出品し、モネに戸外で写生することを勧めたという。モネより16歳年上であったこともあり、その後に世界的に有名になる若手印象派画家たちを育てた先人のひとりだ。  ブーダン自身はパリのサロンへの出品も続けており、すなわち二足の草鞋(わらじ)を履きながら1889年ついにその念願のサロンで金賞を射止め、1892年(68歳)には国民栄誉賞、いやそれ以上のレジオン・ドヌール勲章を授与された。  ブ

        画家の心 美の追求 第76回「藤田 嗣治 カフェ 1946年」

        • 画家の心 美の追求 第75回「レンブラント・ファン・レイン ゼウクシスとしての自画像 1669年」

        • 画家の心 美の追求 第74回「ヨハネス・フェルメール 地理学者 1669年頃」

        • 画家の心 美の追求 第73回「ウジェーヌ・ブーダン ベルク 船の帰還 1890年」

          画家の心 美の追求 第72回「ウジェーヌ・ドラクロワ  民衆を導く自由の女神 1830年」

           オリンピックパリ大会での日本選手の活躍は心踊るものだが、自国民の大声援を受けたフランス選手の頑張りは驚異的と言ってもいいほどだ。  そういう意味での前回の東京大会での日本選手は自国民の応援のない無観客の中で、多大なる重圧だけを背負い戦うことになったこと、はなはだ気の毒であったと今頃になりすまなく感じている。  さて、この絵は縦2.6メートル、横3.3メートルもある巨大な油彩画で、フランス国旗トリコロールをたなびかせ、左手には銃剣付きのマスケット銃を掴んだ乳房をあらわにした

          画家の心 美の追求 第72回「ウジェーヌ・ドラクロワ  民衆を導く自由の女神 1830年」

          画家の心 美の追求 第71回「カミーユ・ピサロ 果樹園 1872年」

           わたしたち日本人だけでなく世界中の人たちが大好きな印象派の絵だが、この会派を立ち上げ発展させた人物はいったい誰だろうか?  印象派という名前の由来となった「印象 日の出」(第1回印象派展)を描いたクロード・モネを最初に思い出すが、実は彼ではなくて、第一に尽力したのはカミーユ・ピサロだ。  1874年4月に実施された第1回印象派展だが、最初の展覧会名は、「画家、彫刻家、版画家などの美術による共同出資会社 第1回展」と称された。  信じられないほど堅苦しくて冗長な名で、当然

          画家の心 美の追求 第71回「カミーユ・ピサロ 果樹園 1872年」

          画家の心 美の追求 第70回「ネアンデルタール人 洞窟壁画 約4万年前」

           ヒトはいつのころから絵を描き始めたのだろうか。少なくとも最初の絵はそれを観賞し愛でるためではなかっただろう。では何を目的としたのか。  歴史学者の多くは食料としての動物がたくさん捕れるようにと祈りこめた、呪術的なものだろうと考えている。  日本で発見された1万年以上前の縄文人が作ったとされる土偶ですら何のために作られたのか、その真の理由はわかっていない。それよりもさらに3万年もさかのぼったネアンデルタールのヒトビトの想いなど、われわれ現代人にわかりようはずもない。  

          画家の心 美の追求 第70回「ネアンデルタール人 洞窟壁画 約4万年前」

          学芸美術 画家の心 第69回「ジョン=エバレット・ミレイ オフィーリア 1851年」

           オフィーリアはシェークスピアの戯曲「ハムレット」の妃候補として登場するヒロイン。  オフィーリアは、ハムレット王子の王妃の指示で美しい花を取ろうとして誤って川に落ち死ぬ。そのときの姿を、ミレイは白い肌の怪しい美しさを有する姿で描いた。  1852年の発表当時は、肌の色が白すぎて気味悪がられたが、やがてその構成の素晴らしさと美しさが称えられるようになり、ミレイの出世作のひとつになる。  ミレー(第68回 晩鐘)と今回のミレイ、同じ人物かと思いきや、ふたりはまったくの別人。

          学芸美術 画家の心 第69回「ジョン=エバレット・ミレイ オフィーリア 1851年」

          学芸美術 画家の心 第68回「ジャン=フランソワ・ミレー 晩鐘 1859年」

           ミレーと言えばこの「晩鐘」か「落穂ひろい」が有名だ。子供のころこの絵を見て、正直いい絵とは思えなかった。暗いし何が描いてあるのかわからないし、貧乏そうだし…。  しかし、学校ではミレーは農夫で清貧画家と習った。確か試験にも出ていたほどだ。  ミレーが上のような評価を受けるのは、ミレーの友人のポール・マンツが「ジャン=フランソワ・ミレーの生涯と作品」という本のなかでミレーを聖書に基づく生活を送りながら絵を描き続けた偉大な画家として紹介した。そしてこの本がベストセラーになり、

          学芸美術 画家の心 第68回「ジャン=フランソワ・ミレー 晩鐘 1859年」

          学芸美術 画家の心 第67回「クリスチャン・リース・ラッセン サンクチュアリ 制作年不詳」

           今から30年程前の日本は、今とは違い国中が光化がやきバブル景気にわいていた。こんな時にキラキラする南海の風景を想像させる絵が日本で大注目された。その絵を描いた画家の名はクリスチャン・リース・ラッセルといい、そんな日本で華々しく登場してきた。  彼はハワイのサーファーで、事業家で、歌手で、俳優で、映画監督もするほどの多芸多才な人だった。子供のころから絵が得意で、Tシャツに絵を描き売っていた。だからだろうか絵はほぼ独学で、若者や女性たちが好むイルカやクジラ、色とりどりの熱帯魚

          学芸美術 画家の心 第67回「クリスチャン・リース・ラッセン サンクチュアリ 制作年不詳」

          学芸美術 画家の心 第66回「竹久夢二 黒船屋 1919年」

           マリー・ローランサン(第65回)の絵を模写していると、とりとめもなく竹久夢二を思い出した。  それは社会人になったその年、倉敷の画廊で小さな夢二の版画を買った。新入社員のわたしでも買える手ごろな値段だったので、その後もこの画廊で夢二の絵を何枚か買った。  当時のわたしの持ち物は、机と椅子に電気スタンド、それと段ボール箱が二つ。ひとつは荷造りテープが張られたままだ。  これらの絵は殺風景な独身寮の薄汚れた壁に彩を添えることになる。  ところで夢二と言えば、「黒船屋」。そして

          学芸美術 画家の心 第66回「竹久夢二 黒船屋 1919年」

          学芸美術 画家の心 第65回「マリー・ローランサン  マドモアゼル・シャネルの肖像 1923年」

           マリー・ローランサンはピカソやブラックなど革新性を求める新進の画家たちが集まり住んでいた安アパート、ラトー・ラヴォワーク(洗濯船)に同居することを認められた唯一の女性画家だ。  そして、お金を稼ぐ女性画家としても初めてのひととなる。  その理由はこの当時はやり始めたアールデコ様式の家に飾るのにちょうど良い大きさと、明るくて品の良い色使い、さらに絵を購入するのに女性の意見が重要視されるようになったからだ。  女性の力、地位が向上し始めたこととも一致している。  さて、ピカ

          学芸美術 画家の心 第65回「マリー・ローランサン  マドモアゼル・シャネルの肖像 1923年」

          学芸美術 画家の心 第64回「マリー・ブラックモン アトリエにいるフェリックス・ブラックモンの肖像 1886年 」

          この絵は妻マリーの目から見た銅板版画家である夫フェリックスの立ち姿を描いた一枚だ。妻の目からはこよなく愛する夫の堂々たる姿を好ましく描くことができたと自信に溢れていた。  しかしこの絵を見た夫はまったく違うこと考えていた。  女性の三大印象派画家のひとりと評されるマリー・ブラックモン。わたしはこの「学芸美術 画家の心」シリーズを始めるまでは彼女のことをまったく知らなかった。それもそのはずで国内の美術館や展覧会で紹介されることはほとんどなかったからだ。   三大女流画家と

          学芸美術 画家の心 第64回「マリー・ブラックモン アトリエにいるフェリックス・ブラックモンの肖像 1886年 」

          学芸美術 画家の心 第63回「メアリー・カサット 母と子 1903年 」

           メアリー・カサットは1844年アメリカ・ペンシルベニアで生まれ、父は株の仲介業で財を成し、アレゲニーの市長を務めるほどで裕福な家庭に育つ。幼少のころよりデッサンを学び、カサット自身は画家になることを夢見ていたが、父親は終生反対していたようだ。  22歳のとき、固い決意とともに母親とともにパリに移り住み、ルーブル美術館にかよい熱心に模写し、腕を磨く日々を送る。戦争により一端アメリカに帰国するが、翌年再び渡欧し、ヨーロッパの美術館を巡り大きな刺激を受けると同時に模写に励んだ。

          学芸美術 画家の心 第63回「メアリー・カサット 母と子 1903年 」

          学芸美術 画家の心 第62回「ベルト・モリゾ クレイドル 1872年 」

           画題の「クレイドル」とは、英語で「ゆりかご」という意味だそうです。  ゆりかごの中ですやすやと眠るわが子をやさしく見守る若い母親の愛情を感じさせる優れた作品だ。  この絵はモリゾが31歳の時の作品で、モデルは姉のエドマと彼女の子供だといわれている。  モリゾとエマドは子供ころより共に絵画の勉強に勤しみ、生涯を通じて仲のいい姉妹だった。  ところでモリゾはもう一人の姉のイブ、そして母親と一緒に描いた絵が残っているが、母親と三姉妹はともに品がよく、育ちのいいきれいな顔立ちを

          学芸美術 画家の心 第62回「ベルト・モリゾ クレイドル 1872年 」

          学芸美術 画家の心 第61回「ピート・モンドリアン タブローⅠ 1921年 」

           いきなりですが、「タブロー」って何?  ウィキペディアで調べてみると、「絵」とある。さらに「板絵のこと」だそうです。  モンドリアンはこれを「絵」だ、と言いたいのだ。  絵だとしても黒い線とそれに囲まれた四角。その四角に適当に見栄えよく色を付けだじゃないの。それでもモンドリアンは絵だというのだ。    このように絵にも画題にもまったく具体性がない。すなわち抽象的であり、これこそが抽象画なのだ。  モンドリアンは抽象絵画の先駆者なのだ。  そして、モンドリアンは言う。 「

          学芸美術 画家の心 第61回「ピート・モンドリアン タブローⅠ 1921年 」