画家の心 美の追求 第74回「ヨハネス・フェルメール 地理学者 1669年頃」
フェルメールの人気はいまや日本だけでなく世界中の人たちが大好きな画家のひとりだ。彼の絵の中で一番人気はマウリッツ美術館所蔵の「真珠の耳飾りの少女」に違いない。
頭に青いターバンを巻き大粒の真珠の耳飾りを付け、こちらに向かって魅惑的なまなざしを投げかけている。
青色は宝石の一種であるラビスラズリーを粉にして絵具にしたもので、とても高価なものだが、フェルメールはその絵具を多くの作品に使ったことでも有名だ。
だからだろうか、元のタイトルは「青いターバンを巻いた少女」だっという。
さて、フェルメールの画法だが、カメラ・オプスクラ(凸レンズを用いた針穴写真機のようなもの)を用い、モデルにポーズを取らせ、レンズを通った画像を画紙に写し取り、その画面に美しく彩色した。
カメラ・オプスクラを用いるため画面は比較的小さく、限定されたものになった。
彼の絵の中で比較的マイナーな「天文学者」を模写した理由だが、この絵のモデルが気になったからだ。同じころに描かれた「地理学者」も同じモデルだと思われ、アントニ・ファン・レーフェンフックだと言われている。
レーフェンフックはフェルメールと同じデルフトの町に同じ年に生まれ育った。きっと学校も同じで、幼馴染だったに違いない。学業成績はきっとレーフェンフックの方がよかっただろう。
レーフェンフックはいろんな肩書を持っていたが、その中で彼は世界で初めて顕微鏡を発明しており、後にこれを用い精子の発見(1677年)を始め微生物の研究で多大な功績を残した。
そして、フェルメールの死後彼の財産管理人を任せるほどの仲だった。
ところでこの顕微鏡の凸レンズは誰が作ったのだろうか。その回答を歴史は語らないが、当時オランダのハンス・リッペルスハイというガラス職人が凸レンズと凹レンズを組み合わせて世界初の望遠鏡を作っている。
歴史の教科書では、望遠鏡はヴェネチアのパドバ大学の教授であの有名なガリレオ・ガリレイが1609年に発明したことになっている。ところが、リッペルスハイは前年の1608年に望遠鏡を発明している。
後にこのふたりは特許係争を起こしている。結果は不明だが、歴史の流れから見てパドバ大学のガリレオ教授が勝利したのだろう。そしてこの係争には、ヴェネチアの王が背後にいた。
ガリレオは自作の望遠鏡を用いて木星に惑星があることを発見し、この惑星に自分の名前であるガリレオと命名すると、イタリアはもちろんのことヨーロッパ中で大天文ブームが起き、ガリレオの望遠鏡は売れに売れた。そして、特許料の半分はヴェネチア王の懐に納まった。
さてレーフェンフックだが、ガリレオが遠く宇宙を望むなら、自分は顕微鏡を作り極微の世界を覗こうと考えたのかもしれない。
この当時のオランダは、ネーデルランド共和国と称し、今のオランダ、ベルギー、フランス東部とドイツ北部が含まれていた。そして、海洋進出を推め東インド会社や日本へも交易をするなど豊かな国であった。この時期をオランダ黄金時代(1620年後半~1672年)と呼び、フェルメール(1632年~1675年)が生きた時代とピタリと一致しいる。思うように絵が売れなかったフェルメールが高価なラビスラズリーを使えたのもこの時代があってのこと。
しかしこんなうまい話に周りの国々が黙っているはずもなく、武力に勝るイギリスとフランスがネーデルランドに侵攻。武力の違いによりオランダは一気にその勢力をなくす。
オランダの国が疲弊すると同時にフェルメールの家族も苦境に陥り、43歳という若さで没する。一説によるとうつ病だったと言われている。
作品数が少なかったこともあり、やがてフェルメールの名前も絵も忘れ去られ、復活するのは20世紀に入ってからのことだ。
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