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画家の心 美の追求 第71回「カミーユ・ピサロ 果樹園 1872年」

 わたしたち日本人だけでなく世界中の人たちが大好きな印象派の絵だが、この会派を立ち上げ発展させた人物はいったい誰だろうか?

模写「果樹園」

 印象派という名前の由来となった「印象 日の出」(第1回印象派展)を描いたクロード・モネを最初に思い出すが、実は彼ではなくて、第一に尽力したのはカミーユ・ピサロだ。

 1874年4月に実施された第1回印象派展だが、最初の展覧会名は、「画家、彫刻家、版画家などの美術による共同出資会社 第1回展」と称された。
 信じられないほど堅苦しくて冗長な名で、当然仲間内からもすっきりとした冠名を望まれていた。

 そういった中で、第1回の展覧会にピサロはこの「果樹園」と「白い霜」の2点を出品したが、展覧会そのものの評価は散々だった。その中でもモネの「印象 日の出」が特にひどいものだった。

 モネの絵は仲間内からは大いに評価されており、それ故の同情があったのかもしれないが、この会の名前を「印象派」とした。
 そして、第2回以降は「印象派展」の名で実施される。
 ところがこの「印象派」という名前に全員が賛成したわけではない。とりわけエドガー・ドガの反対が強かったという。その理由は、モネらは戸外での写生を良しとし、ドガやルノワールらは室内での光と影の効果を追い求め、立場の違いがあった。
 わたしたちは彼らを印象派の画家として一括りにするが、ここに画家たちの強い拘りを見ることができる。

 第2回は資金難も重なり、すったもんだの末2年後の1876年、画商デュラン・デュエルの画廊を借りての実施となる。
 ここで話はわき道にそれるが、ピサロはデュエルから資金援助を得ており、ピサロは生涯で1500点の絵画を残したが、そのうちの500点はデュランが引き取っている。

 さて本題に戻る。今では冠たる「印象派」だが、立ち上げ当初より苦難の連続であった。
 さらに時代は王政から民主制へ、男女間の平等化、カメラの発明と普及、日本画などの異国文化への興味、チューブ入り絵具や画材の発達など、取り巻く社会状況は急激に変化しており、そんな中でピサロはさまざまな考えを持つ画家仲間がバラバラになるのをなんとかまとめつつ、第8回印象派展(1886年)を実施する。しかし、その努力も底をつき、これが最後の印象展となり会は解散した。

 その後は各地で各グループが分離派と称し、いろんな会派や派閥が乱立することになる。

 これ以後は、ピサロのように画家自らが仲間をまとめるということはしなくなると同時にできなくなる。

 それは、画家自身が自由にお金を稼ぎ、自立することができるようになったことと、デュラン・デュエルのように画家個人を支援し援助する画商の存在が大きくなったことによると思われる。

 すなわち画家は、仲間内の意見や考えより、金づるである画商の顔色を、意識するしないは別にして、こっそりと窺うようになったのである。

 さて元に戻って、ピサロという画家、人物はどういうひととなりであったのだろうか。
 間違いなく育ちの良さからくる実直で好人物だったのだろう。そんな彼の絵と画風とはどのようなものであったのか。
  ピサロの絵をいま見直してみるとこれといったインパクトは感じない、退屈な作品といえるだろう。

 エミール・ゾラは、「なぜ、あなたはここまで不器用に、堅実に自然を描き、率直に研究するのか。…。見ていて、少しも楽しいものはない。…。厳格で深刻な絵画、真実と正義に対する極端な配慮、激しく強い意志。あなたは本当に不器用だ。しかし、私はあなたのような画家を好む(1866年5月20日)。」と評価した。

 そうではあったがモネ、ルノワール、マネ、シスレーと親交を深め、次世代の若手画家のゴッホ、ゴーギャン、セザンヌたちに大きな影響を与え、時代をつなぐ偉大な画家だと言えるだろう。

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