学芸美術 画家の心 第64回「マリー・ブラックモン アトリエにいるフェリックス・ブラックモンの肖像 1886年 」
この絵は妻マリーの目から見た銅板版画家である夫フェリックスの立ち姿を描いた一枚だ。妻の目からはこよなく愛する夫の堂々たる姿を好ましく描くことができたと自信に溢れていた。
しかしこの絵を見た夫はまったく違うこと考えていた。
女性の三大印象派画家のひとりと評されるマリー・ブラックモン。わたしはこの「学芸美術 画家の心」シリーズを始めるまでは彼女のことをまったく知らなかった。それもそのはずで国内の美術館や展覧会で紹介されることはほとんどなかったからだ。
三大女流画家と評されるほどの画家の絵が、これほどまでに無名なのはいったいどういうことなのだろうか。
ひとつには作品数が少ないことによるそうだ。
それと美術館の所蔵ではなく、個人による秘蔵が多いそうで、これらを集め展示することが難しいためだそうだ。
では、なぜこれほどもまでの実力者の作品がバラバラになっているのだろうか。このように彼女に関しては次々と疑問がわいてくる。
マリーは1840年フランス北部のブルターニュに生まれ、幼少より絵画教室にかよい絵の勉強に勤しんでいた。17歳の時サロン・ド・パリに出品し評価される程の画力を有していた。
そしてパリに移り住み、絵画の勉強のためにルーブル美術館にかよい、模写に励んでいた。このとき夫となるブラックモンと劇的に出会い、すったもんだの挙句の果てに親の反対を押し切りふたりは結婚する。マリー27歳、ブラックモン34歳だった。
夫のブラックモンは、この時磁器に浮世絵風の絵付けをして評判を得ており、マリーはかいがいしく夫の仕事を手伝いながら夫の友人であるマネやドガ、シスレーなどの印象派の画家たちと知り合うと同時に彼らの影響を受け、印象派の絵を描くようになる。
マリーの画力はますます向上し、1879年の印象派展に出品する。夫のブラックモンは第一回印象派展から出品し続けており、このとき夫婦揃っての出品となった。さて、このときどちらの作品が評判をとったのだろうか。
出品された作品がどれで、評価内容など詳しくはわからないが、後の経緯を見ると妻のマリーの作品が夫以上に大きく評価されたのではないだろうか。
マリーの画力はドガやマネらも認めることとなる。
一方夫のブラックモンだが、彼はこれまでの銅版画の世界を再構築し、さらには浮世絵の革新性を発見するなど、これから発展する印書派の絵に絶大なる影響を与えた人物であったが、どちらかといえば学才派だった人物と言えるのかもしれない。
ときは19世紀の最晩年、20世紀の黎明期である。世の中は大きく変化しようとする時代ではあったが、男尊女卑の思想は当たり前。この時代においては開明的であったブラックモンだが、日ごとに膨れ上がる妻の実力と名声に嫉妬心、すなわち男の焼きもちを焼いたのではないだろうか。
このときよりマリーは絵を描くことを禁じられる。とても理不尽に聞こえるかもしれないがこの時代、妻となれば絵を描くことは許されず、夫に仕え従うことが常であり、マリーもその慣習に従ったのである。
しかし、真のマリーの心のうちはどうであったのだろうか。その後も細々とではあったが、絵を描き続けた。そして完成した絵は友人たちに預けたのではないだろうか。友人知人たち、その多くは女性たちだろう。彼女たちはマリーの気持ちを知り、大切に受け止めた。
だから数少ない作品がバラバラの個人所有となり、そして、その後も譲り受けた女性たちはマリーの気持ちを大切に思い続け、決して売ることなく、私蔵し続けているのではないだろうか。
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