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学芸美術 画家の心 第66回「竹久夢二 黒船屋 1919年」

 マリー・ローランサン(第65回)の絵を模写していると、とりとめもなく竹久夢二を思い出した。
 それは社会人になったその年、倉敷の画廊で小さな夢二の版画を買った。新入社員のわたしでも買える手ごろな値段だったので、その後もこの画廊で夢二の絵を何枚か買った。
 当時のわたしの持ち物は、机と椅子に電気スタンド、それと段ボール箱が二つ。ひとつは荷造りテープが張られたままだ。
 これらの絵は殺風景な独身寮の薄汚れた壁に彩を添えることになる。

模写「黒船屋」

 ところで夢二と言えば、「黒船屋」。そして黒船屋のモデルとなった彦乃との恋物語だろうか。

 夢二の画業は本の挿絵から始まり、やがて「夢二式美人画」として大衆に大受けする。それも全国からの女性ファンがひっきりなしにやって来たという。

 そんな中で1914年夢二30歳の時、日本橋呉服町で「港屋絵草子店」を開店した。そして、訪ねて来たのが19歳になったばかりの笹井彦乃だった。
 彦乃は日本橋紙問屋の娘で、女子美術学校の学生であった。彼女をモデルにした絵をいくつも描き、その一枚が名作「黒船屋」だ。

 それから3年後高台寺近くで彦乃と同棲を始め、彦乃との切ない気持ちがあの有名な「宵待ち草」を作詞することになる。この詩に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮((おおのただすけ)が曲を付け、大正ロマンを代表する歌曲として日本中で大ヒットした。

 しかし、彦乃との甘い生活は長くは続かなかった。それから2年後の1920年彦乃は結核を患い、彼女のはかない夢は静かに幕を閉じる。わずか25年の命だった。
 彦乃にとってはあまりにも悲しく切ない恋だった。

 夢二は絵画だけでなく、詩、歌謡、童話など幅広く活躍した多能多芸な人物だが、その一方で学芸界から認められることはなかった。

 なぜ美術界も文学界も彼を認めようとしなかったのだろうか。

 夢二は美術学校や特定の先生や先達に教わることなく、ほぼ独学で自分のスタイルを貫き通した。その結果として生み出されたものは飛ぶように売れ、大正ロマンの時代を代表する作家となっていく。

 特に夢二は学校を出ていないことが大きなマイナス要因となったのではないだろうか。先達から見れば夢二は画家ではなく、いち職人としてみなしていた。だから彼の絵は美術館での展覧会は施されず、多くは百貨店で大衆向けにもようされた。

 これと似たようなことが後の日本で起きている。
 1990年前後のバブル期に日本で活躍したクリスチャン・ラッセンだ。彼はサファーで、大きなキャンバスに壮大な海の絵を描いた。この絵が日本で受け、誰もが知るほど有名になる。

 しかし、ラッセンの絵は美術館で開催されることはなく、デパートやショッピングセンターの催事場で数万から数百万円で取引された。
 彼はサーフィンと絵画以外にも、歌手であり、映画俳優であり、監督もする多能多芸な人物だが、画家としては本国のアメリカでも認められることはなかった。

 同じようにバンクシー(第52回)も多芸多能な人物だが、美術学校は出ていない。だからだろうか、画家としてはまったく認められていない。

 絵がうまいだけでは画家としては認めてもらえないのだろうか。夢二もラッセンもバンクシーもいろんなことで十分すぎるほどの金を稼いでいるのだから、画家でなくてもいいじゃないかとでも思われているのだろうか。
 それとも単純なやっかみからか。
 真の理由はわからない。

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