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サイゴンの物売り少女

 サイゴンの路上の物売りは、陽気で実にしつこい。我々のような外国人観光客相手に、絵葉書や観光用の市内地図を、どこまでも追い掛けてきては執劫に売ろうとする。
 大半が女性で、歯が抜けたお婆さんから、まだ小学生といった幼い子どもだっている。旧大統領官邸近くにある中央郵便局付近の露天では、それと同じものが、彼女たちが売る値段よりも安く買えるので、当然ながら旅行者にはあまり人気がない。それでも私が売るものは違うのよと言わんばかりに、押しつけるように買ってくれとしつこくせがむ。

 アジアの国々を旅していれば、外国人相手の路上の物売りの光景などさして珍しいものでもないが、ここサイゴンの物売りのそのしつこさは数段上、普通の旅行者であればすんなり根負けしてしまう。そのあまりのしつこさに、怒り出す人や、逃げ出す人もいるが、彼女たちはそれにもめげず、なんで買ってくれないのとか反対に喧嘩も売ってしまう人や、走って逃げだしても数百メートル先まで追い続ける人など、とにかく買うまでとことん追いかける。

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 さすがにレストランの中にまでついては来ないが、食事が終わって出てくるまで、入口付近にずっと何時間でも辛抱強く待ち続ける。食事が終わってからも、頼んでいないのに観光名称を案内したり、懇意にしているお土産屋に連れて行こうとしたり、コーヒーが好きだと言えば評判のお店、冷えたビールが飲みたいと言えばこの店とか、この街のことならなんでも聞いてと、考え方によっては探す手間も省け都合もよく、その世話好きさは案外憎めないところもある。

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 その中でもひときわしつこい少女がいた。八歳ぐらいの彼女は、その小さな両手いっぱい絵葉書や市内地図を抱え、これはと思う外国人に焦点を定めると、とにかく買うまでしつこく追ってきた。そんなに葉書を出すほど友人はいないからとか、その絵葉書は郵便局の近くの露天ではその値段より安く売っているよ、とか嫌味を言っても彼女は引き下がらない。
 昼食のレストランでも、私が入って出てくるまでの一時間もの間、レストランの入口でずっと待ち続け、時おり目が合えば外から大きく手を振って、窓越しに絵葉書と地図を差し出したりした。もちろん、その間レストランに出入りする他の観光客にも売り込むことを怠らず、そして明るい笑顔を常に絶やさない。

 その日の夕方、道路に面して座るフランス式のカフェで、家路を急ぐ人々とバイクの活気あふれる往来を眺めながら、ベトナム式のドリップコーヒーを飲んでいると、昼間の物売りの女の子が、弟のような三歳ぐらいの男の子の手を引いてやってきた。また来たかと咄嗟に身構える私をよそに、彼女とその男の子はすぐ隣のテーブルに無言で腰掛けた。

 何も注文した様子はないが、店のおばさんはその子たちが来たのを知ると、かたいフランスパン半分と卵焼きだけという、簡素な食事とコーラを何も言わずに出した。彼女は終始小さな弟が食べるのを手伝いながら、ひとり分の食事を分け合い、ゆっくりと食べ始めた。まるで周囲の喧騒とは無縁のように。

 食べ終わって帰ろうとするとき彼女は、首から下げた小さな袋を大事そうに引きずり上げると、小さくたたんだ紙幣を出して支払った。そしてまた彼女は男の子の手を引いて、きた道を戻っていった。
 昼間はどこまでも追い掛けてきて、あれほどしつこかった同じ子が、すぐ隣に座っている私には、その間目もくれず、何も言わず、さっさと帰っていった。不思議に思って彼女たちが帰ってから、店のおばさんにあの子たちのお母さんはと尋ねると、ただ一言いないと答えた。

 翌朝ホテルの入り口付近には、着いたばかりの観光客相手に、前日同様に物売りが群がるように集まっていた。その中に自分より三倍も背が高い観光客相手に、精一杯背伸びし、自分の地図を高く差し出して、少しでも手に取って見てもらおうと必死に努力しているあの少女を見かけた。
 その姿を見掛けると、私はすぐに既に持っている観光地図をもう一枚買った。昨日とは違う私の態度に、キョトンと一瞬驚く彼女ではあるが、私が渡した紙幣を小さくたたんで、大事そうに首から下げた小さな袋に納める姿は、今でも目に焼き付いている。

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旅は続きます・・・