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サラエボの運転手

 1990年4月、ギリシャ東部の街テッサロニキを朝出発、ユーゴスラビアの国境に着いたのは夕暮れ近くだった。アテネ郊外からヒッチハイクで、ハンガリーの首都ブタペストを目指し移動を続け、ほぼ順調に二日でユーゴスラビア国境に到着した。

 勢い余ってヒッチハイクを始めたのには理由がある。観光地であるイスタンブールから長距離バスでギリシャのアテネに着き、くたくたに疲れ、何する気も起らず、安宿の窓から見え小高いアクアポリスの丘にそびえる、ライトアップされたパルテノン神殿を眺めていると、いったい何しにここまできたのかと、ふと考えてしまった。
 わざわざヨーロッパまで来て、長距離バスに揺られ、観光名所をただひたすら廻るという、闇雲にゴールを目指す双六ゲームのように、盤の上のチェックポイントに振り回されている自分にうんざりしたからだ。

 一晩過ごしただけで翌朝宿を出て、世界遺産を目前にして観ることなく引き返し、アテネ市内を後に市電とバスを乗り継ぎ、郊外にあるハイウェイの入り口を一路目指した。市電の窓からパルテノン神殿が、次第に後方へ遠ざかっていくのが見える。なんの後悔はなく、それよりもこれから一体何が待ち受けているのかという、読めない旅の展開に、高揚する気持ちの方がはるかに強かった。

 ただ点と点を移動するのであれば、バスや列車が合理的である。しかし、目的地へ行きたくても思うように行けないのがヒッチハイク。ただそれがいい。目的地に着くことだけが旅のゴールではなく、そこまで辿り着く過程が単純に気に入っているだけかもしれない。

 ギリシャ側の出国スタンプを押してもらい、しばらく歩き国境線を超え無事ユーゴスラビアに入国を果たした。
 両側に荒涼とした山々が連なり、通る車も少なく、路肩で乗せてくれる車を待っていると、数十頭の羊の群れが番犬と羊飼いを従え、私を挟み込むように通り過ぎていった。ギリシャとは全く異なる別の国に来たことを、改めて実感させてくれる程、のんびりとした牧歌的な風景が拡がる。

 ある街では、停まってくれた車が教会へ行く途中だと言ってそのまま一緒に行き、中から出てこられた司祭に長年の友人かのように紹介され、サンドイッチや果物を分けてくれたり、またある街では、下校途中の高校生に道を聞いただけなのに、日本から来たと言ったら、とたんに高校生数十人に囲まれ質問攻めにあったり、西側諸国のギリシャとは全く違い、どこに行っても人間味あふれる歓待を受けた。

 当時東ヨーロッパの中で市場経済を導入する社会主義の国として、独自の路線を歩んでいるユーゴスラビアは、西側諸国と比べ道路やインフラの整備は遅れ、街の照明も心なしか暗く、商店にも物が豊富ではない。しかしそれにもましてどの西側諸国よりも人々の実直さと明るさ、そして温かさを感じずにはいられない。我々が経済成長とともに忘れ去られた何かが、このユーゴスラビアには残っているような気がした。

 中でも、首都ベオグラ―ドからハンガリーの国境近くまで乗せてくれた、長距離トラックの若い運転手の事を今でも忘れることができない。
 彼はサラエボの出身で、ユーゴスラビアで一番美しいサラエボの街を見ることなく、すぐさま国境を越えてしまうという私の旅の予定を残念に思っていた。それでしきりに次回はサラエボに来いと力説し、運転中彼が話してくれるサラエボの風景に魅了された。
 周囲を山々に囲まれ盆地に位置するサラエボは、街の中心をゆったりと川が流れ、旧市街には多くの歴史的建造物があるだけでなく、冬はウインタースポーツが盛んな雪深い街としても知られ、唯一ユーゴスラビアで1984年に平和の祭典であるオリンピックが開催された街として誇らしげに語った。

 そして、彼の目的地であるザグレブとは違う方向にもかかわらず、分岐点からわざわざ1時間以上もトラックを走らせ、できるだけハンガリーの国境近くまで乗せてくれた。
 分かった次は必ず行くと約束し、お互い道中の安全と健康を祈り固い握手をして別れた。彼の厚意に何も応えることができない自分の不甲斐なさを痛感、ただ彼のトラックが見えなくなるまで大きく手を振って見届けるぐらいしかできなかった。

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 東欧諸国にとって1990年という年は、社会主義崩壊、そして民主化へと、これまでの政治体制が瓦解していく激動の年でもあった。東欧各国が平和裏に民主化へと移行する中、ユーゴスラビア連邦は無政府状態に陥り連邦政府が分裂、私が帰国してすぐさま、かの地は戦場と化した。

 ユーゴスラビアで一番美しい街と彼が誇りにしていたサラエボの街並は、雨の様な砲弾、執拗な銃撃によってことごとく破壊され廃墟の海と化した。
 戦争という回避できない悲劇は思わぬ時に突然やって来て、そのつど異民族同士の確執を助長、なんの解決もされないまま人々の遺恨だけがそのまま後世に残していく。

 ただ個人的な想いとして、サラエボ出身のあの若者が戦争に巻き込まれて行く姿を想像したくないが、彼は民族の誇りという名の元に銃を取って戦場に向かったに違いない。
 サラエボと聞けば、誰しもが宗教対立、民族浄化、そして戦禍の跡を彷彿するに違いない。確かにその街にも踏み入れず、見もせず、なにひとつ語る資格もない人間かもしれないが、明らかなのは、戦禍にそのつど巻き込まれ犠牲になるのは、何の罪もないかつ必死に生きている善良な人々だ。
 帰国後テレビニュースの映像で映し出される廃墟と化したサラエボの街を見るたびに、いち旅行者に過ぎない者の胸が押し潰れんばかりにもの思う。

 ひとつの国だったのが別々の国になったり、国名も変わり主義思想も180度変わったり、以前あった国がなくなったたり、今でも世界は目まぐるしく変わっていく。
 自分でもなぜ旅を続けるのか分からず、帰国してまず考えるのは次の旅のこと。何するわけでもなく、何かを得るわけでも、しがらみから逃れるわけでもないのに、きっと何かに駆られ、また旅の支度をする。

 誰かが待っているわけでも、何かを伝えるわけでもなく、ただ路肩に転がる石ころのように、通り過ぎる車を眺めているだけに違いない。それはきっと、また何かを抱えてしまう辛い旅かもしれない。けど、喜んでまた旅にでよう。

旅は続きます・・・