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Facebookが流行った世代

 Facebookが流行り始めたころ、実名でのSNS登録に抵抗があった私はなかなか手を出さなかった。
 いささか乗り遅れたかなという時期に登録したのだが、それでも懐かしい人と予想以上に繋がることができた。十数年ぶりに再会する、なんてこともあり、産後の鬱状態になりかけていた私は救われたと言っても過言ではない。

 しかし、私がFacebookに登録して程なく、流行は下降し始めたように思う。その頃、「若者はFacebookを使わない」という論調があった。
 そうか、私ももう若者とは言えないかもな、と寂しく思いつつ、その理由に私なりの心当たりがあった。

 私は大学に入学し、地方から関東へ出てきたときに初めてPHSを持った。「ピッチ」と呼ばれたそれは、携帯電話ではない。詳しい機能の差はわからないが、電波範囲が携帯電話よりは弱く、代わりに機体と利用料金は安価であった。
 当時、私の母校の学生はごく一部が携帯電話を持っていた。私のような地方出身者は、ピッチを親に持たされていたことが多かったように思う。そして、どちらも持っていないためにアルバイトに励んでいる、という学生も少なくなかった。

 つまり、高校時代の友人関係を続けるためには、各々の実家を経由するか手紙を送る、といったアナログな手段しかなかった。
 私が通っていた高校は卒業式が早く、その時点で進路が決まっていない人の方が多かった。よほど仲の良かった友人でなければ、わざわざ連絡をとって志望校に合格したかを確認することはできなかった。そのまま疎遠になってしまった友人のなんと多いことだろう。

 Facebookはそうした、一度は途絶えてしまった友人との繋がりをいくつか取り戻してくれた。それは私にとってとても幸せなことであった。私の近況を知り、喜んでくれた人、実際に再会できた人、Facebookを利用しなければ、二度と会えなかっただろう。

 しかし、私よりも若い世代にはそうした断絶がおそらくない。地方から出てくるにしても連絡ツールをすでに持っていて、地元に帰れば簡単に連絡をとって会うこともできる。
 そうした若者たちには、私のようなFacebookによる恩恵は存在しないだろう。Instagramのような友人関係よりも、情報ツールとしての意味合いが強いものの方が好まれるわけである。

 と、つらつらと書いてしまう辺りが若者ではないのかもしれないけれど。
 Facebookが繋ぎ直してくれた縁を大事にしようと考えながらも、Facebookでは繋がらなかった友人に、いつの日か再会できるようにと祈っているのである。


これまでに、頭の中に浮かんでいたさまざまなテーマを文字に起こしていきます。お心にとまることがあれば幸いです。