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フォームは秘伝?

この情報社会なので境界線を引くのは難しいとは思いますが、フォーム(形式)を極めようとする努力はあくまでもお家(内輪)の話。

お外の人に強制してはいけません。寧ろ、お外の人のフォームについて理解しようと努めるのが先。

あなたがそれほどフォームを大事に思う人間なら、ごく自然な考え方ではないでしょうか?

昔のことならいざ知らず、様々な比較的確立されたフォームが転がっている現代。お互いがフォーム抜きで、理解し合おうと努め、その結果として互いにとってのまっさらなフォームが出来上がる、ということは起こりにくいでしょう。お互い、出会った時点では全くフォームなんてものは意識していなかったとしても、既にその辺に転がっていて、知らず知らずのうちに採用しているフォームについて意識させられるでしょう。特に初対面などで気心の知れていない者同士なら。つまり、フォームが同じか?似ているか?全く違うか?を感じさせられる可能性が高い。評価もする。どっちの方が良さそうか?

フォーム推しに偏る人間は、自らが標準化圧力の片棒を担いでいる自覚がないことが多い。

それはフォームが私たちのコミュニケーションにとってとっても大切なことを理解しているからなのですが、意識が「(内輪の)人間の誠実さ=フォームへの忠誠」に偏り過ぎているから。フォームを守るのは道徳的な義務と思い込まれているわけです。

フォームなんて複数あって当然だし、亜流が発生するのだって防げやしない。そのせいでコミュニケーションがうまくいかないと嘆くなんて弱っち過ぎる。

フォームの話はお家(内輪)の話と言ったけれど、いくら内輪のことといったって、単一フォームを厳守するのみのお家なんて存在し得るのだろうか?

人間ってほんっとに何でもかんでも神さまにして崇め(させ)たがる。

フォームってカタチになって表れるものだし、矛盾するようだけれど、正しく「秘すれば花」なのだと思う。

何とかの番人よろしくパブリックにレクチャーするようなものではない。

極端な話、パフォーマンスを通じて、師匠と弟子との間で、お互いに無言で伝授・継承されるもの。

とあるフォームに不誠実なら、語られるコンテンツだって不誠実なものである可能性は高い。

けれども、そうであったとしたって、なぜ、どういうわけでそうなるのか?考えてみる価値ぐらいはある。

フォームが大事な目安となることに疑いはない。

争いのタネにするのではなく、人類全体のハピネス振興のために有効活用したいものだ。

間違ってもフォームを愛して、人間を愛さないなんてことはあってはならないだろう。時に形から入ることが有効であるとしても。

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