隙間を埋めるというよりも

当たり前に使っているメタファー:(共有できる)スペース、平面的な世界観、或は、ユークリッド幾何学

私たちってコロコロ変わり続けるので、常に正解!ってわけにはいかない。よって、間違いってことになる可能性はいつでもあるし、間違ったとしても「死活問題ってほどではない」ぐらいに開き直れるようにした方がいい。間違い(穴)を下手に埋め直してなかったことにしようとするよりも。

何にでも真面目に取り組むということは概ねいいこと。

だとしても、真面目ばっかりで常に無難に済むわけもなく。

ましてや、真面目なんて他人に押し付けるようなもんでもない。

真面目にやってるかどうか?なんてそれぞれの人の内心の問題だ。他人がとやかくいうことではないだろう。

平面的な世界観は窮屈だ。

合理的科学で広く採用されている”ギャップ・フィリング”のメタファー(漸進主義。未確認のモノゴトを一つ一つ確認してゆく。)は、ものすごく地道で、事実・証拠に忠実になろうとしていて真摯な態度と受け止められがちだけれど、はっきり言ってウキウキはしない。「そのように受け止めて真面目に取り組め!」と強制してくる力がはたらいているのだから無理もない。

知的興奮ってよりもマゾヒズムっぽい。百歩譲ってストイシズム。

厳しい状況にあえて身を置いて、地道に禁欲的に努力する、というのは社会全体の利益を考えても必要なことではあるのだろう。

でも、特定の人々だけがずぅーーーっと一生通してやり遂げた!やり遂げるべき、というようなものでもなかろう。

それって端的に言ってウソだし。

いろいろとヒーロー、ヒロインを祀り上げるというやり方も現代では(いや昔からか。。。)一般的なルール強制法(思想統制法?民心誘導・動員法?)の一つだけれども、あんまりいいウソとは思えない。

祀り上げたい人々の意向が強く反映され過ぎるし、そういう人たち自身が「正義の側にいる」感じが強くなり過ぎるように見受けられるから。

影響力を行使しやすい人だけがどんどんと生き易くなって、インバランスがどんどんとひどくなっていく。

私たちが沢山の人々とシェアしているとイメージする想像上のスペースは、想像なので相当フレキシブルで広い。とはいえ、平面的なイメージだと案外簡単に窮屈に感じられるようになるなんてこともある。窮屈と感じれば、さらに広げるというよりも、「ここまでの人々だけセーフ」って感じで安全なスペースを区切って境界を定義し直す傾向があるようだ。

そもそも「スペースをシェア」なんてのが超安易な現実(物理)無視のメタファーだってことを自覚することが先決だ。

スペースは常に何ものかによって占められている。何ものかが存在する場所(空間)がスペース。何もないならスペースもない。(ちなみに時間もない。)

「シェアだ」とかいってスペースをまとめちゃうってことは、そうした何ものか達の存在を「どーでもいいもの」ってまとめちゃっているってこと。何も存在しないスペースなんてない。

勿論どーでもよくはない「重要な」「役に立つ(利用価値のある)」もの達も定義されているんだけどね。大概「重要な」人々の都合に合わせて。

スペースであろうが何であろうが、オートマチックに、複数人の間でシェアできるものはない。「シェアという状態がどういう状態を指すか?」について定義されている。定義は関係者が概ね受け入れているけれど、「定義の目的・狙いについて、どこまで明確に意識しているか?」は人それぞれ。定義に敏感なのは概ねパワーの強い方。要するに弱い方はほぼ無意識的に受け入れさせられている。つまり、「シェア」とはいっても、弱い方に自由な裁量はほとんどないといっていい。定義(例:ルール)に従って、自分自身を含め「役に立つ(利用価値のある)」リソースを差し出す側だ。「タダで」では勿論ないけれど。

直観的に受け入れ易いからといって、安易なメタファーに従っていれば、元々不均衡な世の中が、益々不均衡になるという仕組み。

私たちが常識的に使っている、”シェア可能な空間(スペース)”のメタファーはそれを最もヴィヴィッドに象徴しているものの一つであるようだ。

オートマチックに”シェア可能な空間(スペース)”のみに、当たり前のように依存することなく、空間(スペース)に関して多彩にイメージできれば、「シェア」に関する定義も多彩に検討できるというもの。できるだけフェアな社会の仕組みを検討していくためにも、物理や幾何学の勉強も無関係とはいえない。私たちが日常当たり前のこととして見過ごしている、空間(スペース)に関する感覚や想像力などについて、振り返るツールとして活かせるはずだ。

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