見出し画像

「今を生きろ」と言われてできるぐらいなら

全くドラマや小説は必要ない。

できないからこそ文学もなくならない。

「今を生きる」というフレーズはどこかドラマチックな香りがするけれど、それはいわゆる私たちの日常だ。善悪どーのこーの、人生の意味は?、やりがいのある仕事とは?、etc. なんて問わなくて済む時間。何気なく目覚め、さくっと朝ごはんをかきこみ、服を着替えていつもの通勤経路を進む。「今を生きる」というのが日常であるのに難しいことは、そんななんでもない通勤の最中にも、その日予定の会議の議事進行に気を揉まされたり、苦手な上司の顔が思い浮かんだりもしてしまうなんてところからも察せられる。ただつり革を握って、揺れる電車の中でバランスをとり、隣り合わせの人たちの足を踏まないように、という差し迫った物事だけに集中していられる時間というのは案外少ないものだ。

「今を生きる」というのは、究極的には無意識だ。だから通勤電車内の例はすでに「今を生きる」からは離れてしまっている。書き表してしまったら最後、それは「今を生きる」にならない。無意識といっても意識を失ってしまっているわけではない。何気なく。それができているならそれが一番幸せ。私たちにとっての幸せというのは、反芻して、実感できてしまうなら、それはあくまでも何らかの努力を払った上でのもの。二次、三次、、、数次、、、無量大数次の幸せ。つまり、あらためてそれを求めるなら、無垢でまっさらな幸せとはいえない。私たちが小説を読むのもそう。誰もが「今を生きている」はずなのに、そこに一番の幸せがあるというのに。皮肉なものだ。

幸せを得るためには努力が求められる。

当たり前か。

でもなんとなく、「努力」とは言わない方がいいかも。

あくまでも最高の幸せは「今を生きる」。「求める幸せ」というのはそこから離れていくことが明らかなのだから、何か少し後ろ髪を引かれるものが漂う方がいい。「今を生きる」の価値を忘れないためにも。

最高の幸せからは離れることになるのだけれども、敢えて進まなければならない。進んだ方がいい。だから進む。

進んだ方がいい?

なんで?

色々と事情はある。

一人で生きてないから。

すぐに死んでしまうかどうかが分からない。つまり僅かな間でも生きないといけないから。ちょっと詩的に表現するなら「明日がある」から。

どちらかというと後者の事情の方が複雑。

明確に「明日も生きさせて欲しい」なんて思ってなくても生きることになるのに、生きてるんだったら「よく生きたい」と思わされてしまう運命だから。

無限ループっぽいんだけど、それもこれも、いつ「明日」が終わるかが分からないからってのが大きい。分かっているならいい悪いなんて気にならないだろう。分からない以上漸次ではあっても悪くなり続けるというのは勘弁願いたいもんだ。

バラ色の幸せなんて夢見ない。そんな人だって現状維持のありがたみぐらいは分かる。何はなくともいい。「今を生きる」ことができるなら。というように最高の幸せを願ってしまう矛盾。

矛盾のループはそこでは終わらずさらに続く。「今を生きる」の意味が分かれば分かるほど、意識が高まれば高まるほど、「今を生きる」から遠ざかる。そんな矛盾の渦巻きの中で、「よく生きる」というのは究極(ギリギリ)の妥協案。

誰と妥協するんだろね?

それは各自ご相談。

私の場合は神さま。

たまに文句の一つも言いたくもなる。時に無慈悲に過ぎるんじゃ?とも思えるような存在。

こんな矛盾だらけを押し付けてくるんだからキビシイ存在には違いないけれど、現に「今を生きてる」わけで、そこに一番の幸せがある。何か特別なことをしなければならないわけではない。ついでに私は「一人で生きてない」。それぐらいの希望は仄めかしてくれる。

「今を生きる」というのは無垢な時代や時間ともいえるけれど、もう一つ、神さまのようなものへのサブミッション(提出、投稿、帰順、承服、忍従、往生、承伏、甘受。。。中々いい和訳が見つからないが。「従う」という意味があまり強くないのが私の意味したいところなので、提出とかかな?自分よりもはるかに大きな力を持つ存在に対して、そのご判断を頂くことを前提に。長ったらしいけど。。。そんな感じ)。

「無垢の時間」と言うように、ほぼ何も考えず運命というか偉大なるものというか今現にそこにあるものに対して自らを晒している「今を生きる」。理想状態に思えるのだけれど、多分それは違う。そのまま(無垢)を保とうとすること自体が矛盾だ(無垢でない)し、もっと実際的な面で残酷な目に遭わされることになる。私たちの歴史が証明しているように。

無垢な「今を生きる」に備わった価値を認めつつも、それに縋っていてはいけない。

あたかも小説を書くかのように、各自が人生を編もう。

私もまだ小説を書く方法は分からない。けれどもあくあでも「あたかも…書くように」なので、各自の人生の編み方というのは、出版されるような小説を書く方法と似てはいても同一ではないはずだ。

キーワードは、道徳と科学。時間と空間

自分だけではなく、ある程度不特定多数の他者に「ふむ。まあまあありえんこともないかな。」ぐらいには読んでもらえるように。現に「今を生きている」人間その他アクターを自在に動かしてみる。愛情を持って。

運良くコツがつかめるなら、バカにならないぐらいの幸福感・満足感を、矛盾だらけを現に生きながらでも、わりと持続性をもって感じることができるのではないか?ということを考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?