濃い濃い言ってても仕方ないので

訳してみることにした。

『シーシュポスの神話』アルベール・カミュ(1942年仏・原/1955年英・ジャスティン・オブライエン訳)

とりあえず、前段を、しかもかなりザクッと。

引き続き見直します。。。(英文部分残しも見直しのためです。あと読まれる(奇特な)方々のご参考のためも、、かな??)

バカバカしさと自殺

唯一の、真に深刻な哲学的問いを挙げるならば、それは自殺について。つまり、生は生きるに値するか否かは、根本的な哲学的疑問に答えることになる。その他の問いーーー世界は三次元であるか否か、精神のカテゴリーは9つか12かなどーーー全てはその後に来る。それらはいわばゲームであり、それらの大前提となる問いに対する答えがなければならない。そして、もしもニーチェが言うように、哲学者が尊敬に値するには具体例をもって説諭しなければならない、というのが本当ならば、生は生きるに値するか否か?の問いに対する答えがいかに重要であるかが理解できるはずだ。なぜなら、その答えなるものは、いかなる定義可能な行為にも先んずるものであるからである。生は生きるに値するか否かに関する問答により呼び起こされるものは全て一人一人にとって現に感じられる事実であるとともに、知性によってより明確に理解したいと、注意深い吟味を要求してくるのである。

If I ask myself how to judge that this question is more urgent than that, I reply that one judges by the actions it entails.

je réponds que c’est aux actions qu’elle engage.

もしも私が私自身に、その他の問題よりもこの生は生きるに値するか否かに関する問いの方が優先されるとどうやって判断できるか?と問うなら、私はその緊急性はこの問いが包摂しているアクション[注]にあると答える。

(注:生きるということ、その価値を問うということはすべて行為であるが、生きるということも、その価値を問うということも、ともかくこの世に存在するという事実が先んじているからこそ可能となっている。)

私は存在論的な議論のために死んだという人を知らない。ガリレオ、非常に重大な科学的事実を掴んでいた彼でさえ、自身の生命の危機に際しては、その重大な真実さえあっさりとしかし厳かに否定して見せた。ある意味で彼は正しい行動を選択したと言える。彼が否定して見せた重大な科学的真実というのは意固地に守り通すほどのものでもなかった。地球と太陽のどちらがどちらの周りを回っているか?などは私たちがそれぞれの生を生きるということに何の関係もない。本当のところを言うと、それは無意味な問いなのだ。(←文字通り「意味」がない。地球も太陽も「意味」はなくともそこにただあり、運動を続け、そして、時期が来れば消滅する。)他方、人生は生きる価値もないと判断し命を断った人間を私は沢山知っている。また、逆説的だが、生きる理由などという考え或は幻想がために死んでいったものもある(「生きる理由」と呼ばれるようなものはこれ以上ない死ぬための理由にもなるのだ)。生の意味というのは、したがって、最も緊急性の高い問いであると私は結論付けた。ではどう答えるか? あらゆる本質的な問い(訳注:問うことにより、死へ導かれさえする危険を犯すことにもなれば、生への情熱を増してもくれる、というほどに本質的)については、おそらく次の二つの方法しかないと言えるだろう。即ち、La Palisse[注]的方法か、ドン・キホーテ的な方法。確たる証拠に基づく方法と抒情的な方法のバランスによってのみ、感性で捉える正しさと明晰性に支えられた正しさを同時に感得することができるであろう。

(注:La Palisseは自明の言説を繰り返すことの象徴として引用される。自明の言説を繰り返すのは滑稽に思われるが、「この言説は真である」と言明してその正しさを主張することは、いかなる証拠を挙げようとも、また、いかに論理整合的であることを証明しようとも、所詮同語反復なのである。https://en.wikipedia.org/wiki/Jacques_de_La_Palice )

感情に対して控えめさが求められ同時に重苦しくもあるような主題(訳注:冷静な分析が求められつつも、感情面に重く訴えかけてこざるをえないような重大な課題)については、どんなに鍛え上げられた古典的な弁証法でも、一般常識と確たる分析を経た上での理解双方から同時に引き出されるような謙虚な心的態度に道を開くべきなのである。(訳注:論理的に合理性を証明することで決着を付けようとしたり、逆に、感覚的に間違いなく正しいのだ!と主張し続けようとするのは、どちらも謙虚な心的態度とはいえない。) 

自殺は常に社会現象として扱われてきた。対して、ここで私たちは、まず何をおいても、個人の思考と自殺との関係に関心がある。自殺のような行為は、偉大な芸術作品がそうであるように、心の内でひそかに準備が進行する。その人自身はその行為に気付いていない。ある晩ふと引き金を引きあるいは飛び降りる。とあるアパートのビル管理者のケースでは、彼は5年前に娘を亡くし、それ以来変わった。娘を失ったという経験が彼を衰弱させたのだ。「衰弱させた」という言葉以上に適当な言葉は想像できない。考え始めるということは衰弱させられ始めるということだ。そのような始まりに社会というものはほとんど関係がない。「虫」は人の心の中にある。心の中にこそ原因は求められるべきだ。この、存在を前にした否定し難い明白さから光がサッと消え失せる状態へと移行する致命的なゲームについて追尾し、理解しなければならない。

自殺の理由は無数にあり、一般的に最も顕著な理由が最も強力というわけではない。自殺は、(そう仮定することは排除しないが)じっくりと来し方を振り返った結果なされることは稀だ。何が一体危機へのトリガーを引いたのか?はほとんどの場合挙証不能である。新聞はしばしば「個人的な悲しみ」や「不治の病」に言及する。そうした説明はそれらしい。しかし、絶望の淵に立たされた人の友人が果たして自殺のその日に彼にさほど興味もない様子で話しかけるなどしていなかったかどうか?というようなことまで知る必要がある。その友人は責めを負うべき者となりうる。何故なら、そうした行為は、未だ保留中であった全ての苦い思いや全ての退屈を現実のものとするに十分であるからだ。

しかし、正確な自殺が起こった瞬間や、心が死を選択したときの微妙な足取りについて確定させることがたとえ難しいとしても、自殺という行為そのものから示唆される結果から推論で導き出すことは容易である。ある意味、そしてメロドラマでそうであるように、自身を殺めることは告白することになる。自殺という行為は、生が手に負えないこと、または、生というものが理解できないことを告白している。しかし、そのような類比に深入りすることはやめよう。それよりも日常の言語に戻ろう。自殺という行為はただ「生は手間をかけるに値しない」と告白しているというだけだ。生きるというのは、ごく自然な感覚として、決して容易ではない。存在しているという事実がために為さざるをえないジェスチャーを、様々な理由により、続けさせられている。そうしたジェスチャーのうち初めにくるものは習慣である。自発的に死ぬということは、本能的にではあっても、そうした習慣というもののバカバカしさを、生きることに深い意味などないことを、日々訪れる揺動のきちがいじみた性質を、そして、苦難の報われなさを認識したことを示唆している。

では、生に不可欠な眠りをも精神から奪い取るような計算不可能なその感覚とは何なのであろうか?説明がつくならばそれが良くない理屈によってであったとしても、その世界はなじみのある世界である。しかし、他方で、突然幻想や光が失われた世界では、人は自身が未知の存在、迷い人であるかのように感じるものだ。一旦なじみのある世界から逸脱してしまったら、その状態から復帰することは不可能だ。何故なら逸脱した本拠の記憶、或は、約束の地への希望は奪われてしまっているのだから。この「人」と「その人の生活の場」、演ずる者と演ずる舞台との間に生じた分裂こそが、バカバカしさ(訳注:残酷なほどの滑稽さ)の感覚である。自殺を考えたことのある全ての健康な人にとっては、さらなる説明も要しないほど、このバカバカしさの感覚と死への欲望との間には直接的な関連性がある。

このエッセイの主題はまさにこのバカバカしさと自殺との関係について。自殺はバカバカしさに対する解決策でありうるか?これをできる限り正確に知ることだ。原則は、騙くらかしをしない(誠実な)人ならば、その人が真実と信じることがその人の行動を決定する、ということ。つまり、自身の存在のバカバカしさがウソやまやかしの感覚ではない(訳注:リアルである)と信じるからこそその後の彼の行為が決定付けられてしまうということだ。この重要性に関する結論(訳注:生は生きるに値するかどうかの問いが何を置いても重要であるとの結論)が、理解不可能な条件については可及的速やかに退けられるよう要求することができるかどうか?明晰な気持ちでもってかつウソ偽りの情感なしに、惑うことは当然に認められるべきである。言わずもがなであるが、私は、自分自身と調和を保ちたいと望むような人々のことについて語るのである。

ハッキリとさせておくべきであるが、この問題はシンプルであると同時に解決不能であるように思える。しかし、シンプルな質問は同じようにシンプルな答えがあり、証拠はほぼ自明であるかのように誤って仮定されるものだ。それはとても簡単なことだろう。生は生きるに値するか?またその反対に生きるに値しないか?、人は自身を殺めるか否か?という問いに応じるように、哲学的な解決も、イエスかノーか二つに一つしかないように思われる。しかし、結論付けずに問い掛け続けるような人には、その機会は留保されるべきだ。この点については、私は若干皮肉屋である。すなわち、問い続けるような人の方が多数派なのだ。また私は気付いている。「ノー」(生は生きるに値しない)と答える者達が、あたかも「イエス」(生きるに値する)と考えたかのように振る舞うことを。事実、もしも私がニーチェの基準を受け入れるなら、彼らはそれぞれ(訳注:のやり方・事情)で「イエス」と考えている(訳注:否定の言明(「生は生きるに値しない」)も言明されたという意味で肯定的。「生きるに値しないこと」を肯定)。他方、自殺をする(訳注:生の意味を否定した)人が、人生の意味について確認させられていたということもしばしば起こる。こうした矛盾は日常茶飯事である。彼らは逆に論理が望ましいとされるこうした点には一切注意を向けてこなかったとも言えるかもしれない。この問題は、哲学的理論と、行動自体がその人について告白するような(訳注:行動すること自体が事実を指し示すような)行動とを比較するような共通のスペースだ。 しかし、人生の意味を否定した思想家の内で、文学の世界(作品?)に属するKirilovや、伝説のPeregrinos、そして仮説の世界のJules Lequierを除けば、生活をすっかり無視してまで論理を専ら重用する人は誰もいない。ショーペンハウアーはしばしば笑い飛ばされるのにぴったりの代表選手として挙げられる。何故なら彼は自殺を称賛しつつ、よくしつらえられたテーブルに座っているために。これは全くジョークではない。悲劇的な物事を深刻に受け止めないそのような様はそんなに悪いことではなく、その人を評価する際の助けとなってくれるのである。

そのような矛盾と不明瞭さを前に、私たちは、各人が持つ生への意見と自殺という行為に至ることの間には何の関係もないと結論すべきだろうか?この方向(訳注:意見と行為の不一致)に拘り過ぎるのはやめよう。人が生に紐付けられていることに関しては、この世のどんな病よりも強力なものが作用しているのだ。 身体による判断は精神(理性?)による判断と同様に優れており、身体というものは恐ろしい破滅の前では萎縮するものだ。私たちは考える習慣を身に付ける以前に生きる習慣に入って行く。我々を日々死へと急がせるそのレースにおいて、身体は常に先んじる。簡潔に述べれば、この矛盾の要因は私が逃避と呼ぶ行動にある。何故なら逃避はパスカルのいうところの迂回以上でも以下でもあるからだ。逃避は恒久のゲームである。典型的な逃避行動、このエッセイの三番目の主題を成す命に関わる逃避とは、希望である。生きるに値すべき別の生への希望、或は生そのもののために生きているのではなく、それを超える、洗練させる、意味を与えるそして裏切るような何かより偉大な構想のためにこそ生きるという人々の労する戦略。

このようにして全ては混乱を広めることに貢献する。今まで、そして努力を無駄にしてこなったとおり、人々は言葉に遊び、生に意味を与えることを拒否することが必然的にその生を生きるに値しないと宣言することになると信じる振りをしてきたのだ。人は単に混乱に、分裂に、以前に指摘された辻褄の合わないようなことに騙されないようにすればよいと思われている。そうした余計なものは全て脇へやり、現実の問題に真っすぐ取組みさえすればよいというように。人は自殺する。それは生が生きるに値しないからだ。それは間違いなく真実であろう。しかし、実りない真実であるともいえる。何故ならそれは自明のことなのだから。しかし、その存在への侮辱、私たちが現にその真っただ中にあるものを真っ向から否定することは、そうしたものに意味がないということから来るのであろうか?そのバカバカしさは、希望もしくは自殺を手段とする逃避を人々に要求するようなものなのであろうか?この点をこそ明らかにし、追求し、詳細に説明しなければならない。その他の何をさておいても。バカバカしさは死を決定付けるのか?この問題は最優先で取り組まれなければならないし、思考のありとあらゆる手法、そして中立の精神なるものの働き意外のやり方で。This problem must be given priority over others, outside all methods of thought and all exercises of the disinterested mind. Shades of meaning, contradictions, the psychology that an "objective" mind can always introduce into all problems have no place in this pursuit and this passion. 意味というものの存在が仄めかすもの、矛盾、”客観的”精神なるものが常に全ての問題に導入しようとする類の心理学、それらの出る幕はこの追求、それへの情念においてはない。It calls simply for an unjust—in other words, logical—thought. That is not easy. It is always easy to be logical. It is almost impossible to be logical to the bitter end. Men who die by their own hand consequently follow to its conclusion their emotional inclination. Reflection on suicide gives me an opportunity to raise the only problem to interest me: is there a logic to the point of death? I cannot know unless I pursue, without reckless passion, in the sole light of evidence, the reasoning of which I am here suggesting the source. This is what I call an absurd reasoning. Many have begun it. I do not yet know whether or not they kept to it.それは単純に、不正義な、言い換えるならば論理的な思考を招請する。論理的思考は簡単ではない。論理的であることは常に易しい。しかし苦い結末に向かって論理的であろうとすることはほぼ不可能である。自らの手によって死ぬ者たちは結果的には感情の動きに沿って結論へと至る。自殺についての分析は私を引き付ける唯一の問題が何であるかを明らかにする機会を与えてくれる。死という点へと導く論理というものがあるのだろうか?がむしゃらな情熱を排し、ただ具体的証拠が明かしてくれるような、ここで今私がその源を示唆しつつある理路を追求しなければ答えは出ない。既に多くの人々がそのような理路で(訳注:生は生きるに値するか否かについての問答を)始めている。しかし、彼らが未だそれを続けているのだろうか、それをまだ知らない。

カール・ヤスパースが、世界を統一的に構成することの不可能さが明るみになり、「この限界が私を私自身へと導く、私が単に表象しているだけの客観的視点などというものの背後に逃げ隠れることを許さない私自身、私自身であれ他者の存在であれもはや私にとっては単なる対象ではない、そのような私自身に。」と叫んだ時、彼は数他の先人達の後を追うように、思考の限界の末に到達する水の無い砂漠を想起しているのだ。本当に多くの人たちなのだ。そして、彼らがどれほど強くそこから脱しようとしていたことか!その思考がたじろぐ最後の交差点に、多くの人々が、しかも最も謙虚である人々の幾人かさえもが、到達してしまったのである。そうした人々はやがて彼らにとってもっとも尊いもの、命を棄てた。また、そうでない者達、精神の王子達も同じように、退いた。彼らの場合、最も純粋な反乱として、思考の自殺を選んだ。むしろ、真に為すべき努力とは、そこ(訳注:思考の限界たる水無砂漠)に留まり続けることなのだが。無論可能な限りにおいてではあるが。そして(訳注:その水無砂漠から)遠くに見える奇妙な植生風景を子細に分析するべきなのだ。執着と、狡猾ともとれるほどの創造性こそが、バカバカしさと、希望と、死とが会話を織りなすこのある意味残酷な見世物を眺めることを許された特権的見物人なのだ。そうしてはじめて、精神はその単純ながら微妙な関係性を演じる登場人物たち(訳注:バカバカしさ、希望、死の三者)を分析することができるのだ。彼らを描き、生き直すために。They then abdicated what was most precious to them, their life. Others, princes of the mind, abdicated likewise, but they initiated the suicide of their thought in its purest revolt. The real effort is to stay there, rather, in so far as that is possible, and to examine closely the odd vegetation of those distant regions. Tenacity and acumen are privileged spectators of this inhuman show in which absurdity, hope, and death carry on their dialogue. The mind can then analyze the figures of that elementary yet subtle dance before illustrating them and reliving them itself.

Absurd Walls(不条理なカベたち)

偉大な作品と同様に、深い感情というものは常にそれらが明確に言わんとしていること以上の意味を含んでいる。魂で起こる衝撃或は反発の規則性とは再び行為或は思考の習慣の中で遭遇する、又は、魂自身は何も知らない結果の中に再生産される。偉大な感覚はそれぞれの宇宙を携えている。壮観であるかもしれないし悲惨なものであるかもしれないが。そうした宇宙は、偉大な感覚が持つ情熱により照らし出され、その排他的世界の中で、偉大な感覚はそれ自体が醸し出す全体の雰囲気を認識する。嫉妬の宇宙もあれば、野心の宇宙もあり、利己的な宇宙もあるし、寛容の宇宙もある。宇宙とは、言い換えるならば、形而上学であり、心の態度である。既に特別な存在である感覚に当てはまることは、感情に対してもより当てはまる。基本的には完全にはとらえきれないものとして。断言的であると同時に曖昧で、遠くに感じられながらも現にそこにあり、美しく我々を装飾しながら、バカバカしさに起動されている感情。

バカバカしさの感覚には、いかなる場所においても、誰もが正面から殴りつけられる可能性がある。バカバカしさの感覚はそれ自体、残酷なほどの粗忽さで、ぼやかしのないストレートな光で、逃避的である(訳注:強烈なのにその強烈さがためにじっくりとした分析を許さない)。しかし、その(逃避性がために引き起こされる)難しさは再考に値する。おそらく、人は、私たちにとっては永遠に知り得ないものなのかもしれない。私たちの追跡を許さない、いかなる抽象化も単純化も不可能な何かが、人というものには宿っているのだろう。とはいえ、実際的には、私は人間を知っているし認識もする。彼らの行動、彼らの行い全体、彼らが存在するということによって招かれた生における帰結によって。(上に述べた偉大な感覚というような)分析材料とはなり得ない不合理な感覚についても同様である。私はそれらを実践的に定義できるし、実践的に評価することができるし、それは知的領域における結果の総計を合算することによって、また、それら偉大で不合理な感覚それぞれの宇宙の輪郭を描くことによってなされる。私が同じ人に100回出会ったとしても、私はその事実のために個人的にその人のことをよりよく知ることにはならない、ということは明らか過ぎるぐらい明らかだ。そうではあっても、もしも私が、その人物が具現化した英雄達を全て足し合わせ、そして、100番目を数え終えた時に、私は彼をいくばくかよく知っているという時、何がしかの真実の要素が含まれていると感じられるのである。というのも、この明らかな矛盾を孕む説明は、訓話でもあるからだ。そこには道徳が含まれている。この道徳的訓話は、人間は彼の本当の衝動とともに、彼が真実と信じたいものでもって、彼自身を定義するものだと教えてくれる。そこにはそのようにして感覚のより低層を流れるキーのようなものがあり、そして、それら感覚が暗示する行動によって、そして、それら感覚の素となる心的態度によって、部分的に露わにされるのである。It is clear that in this way I am defining a method. 私は今このようにして一つの分析法を定義していることは明らかである。しかし、分析法というものは、あくまでも分析のためのものであり、(人々によって)物事を知るに当たって用いられている方法ではない。But it is also evident that that method is one of analysis and not of knowledge. というのも、分析法というものは形而上学を示唆しているからである。つまり、それは無意識のうちに、しばしばまだ知られていないと主張する結論を披歴するのである。同様に、本の最終ページは、既に最初のページに包含されている(訳注:始まった時点で既に結末のない本はない)。そのような関連(訳注:予め想定された始点ー終点関係。つまり、帰着点が定められていること)は不可避なのである。ここで定義される分析法は、全ての真なる知識というものは不可能であるという感覚を認知している。単に表に現れるものだけが説明されるのみであり、そこから醸し出される雰囲気を感じさせるのである。Similarly, the last pages of a book are already contained in the first pages. Such a link is [12] inevitable. The method defined here acknowledges the feeling that all true knowledge is impossible. Solely appearances can be enumerated and the climate make itself felt.

Perhaps we shall be able to overtake that elusive feeling of absurdity in the different but closely related worlds of intelligence, of the art of living, or of art itself. The climate of absurdity is in the beginning. The end is the absurd universe and that attitude of mind which lights the world with its true colors to bring out the privileged and implacable visage which that attitude has discerned in it.おそらく私たちは、バカバカしさの逃避的感覚を、異なる、しかし、近接する、知性の世界、生活技術の世界、もしくは芸術そのものの世界において追い越すことができるようになるべきなのかもしれない。バカバカしさの雰囲気が始めにある。終いはバカバカしさの宇宙であり、真の色彩で照らし、特権的で不変の表面を現出させる心的態度。しかもその表出される表面によってその心的態度は知らしめられるのである。

All great deeds and all great thoughts have a ridiculous beginning. Great works are often born on a street-corner or in a restaurant' s revolving door. So it is with absurdity. The absurd world more than others derives its nobility from that abject birth. In certain situations, replying "nothing" when asked what one is thinking about may be pretense in a man. Those who are loved are well aware of this. But if that reply is sincere, if it symbolizes that odd state of soul in which the void becomes eloquent, in which the chain of daily gestures is broken, in which the heart vainly seeks the link that will connect it again, then it is as it were the first sign of absurdity.全ての偉大な行為、そして全ての偉大な思想は、バカバカしい始まりがある。偉大な作品は、しばしばとある街角で、或は、レストランの回転扉で生まれる。だからこそバカバカしさが伴うのである。バカバカしい世界は、その他の世界にも増して、その斬新さを悲惨な誕生の仕方からもらい受ける。ある状況においては、何を考えているのか問われ、何も答えないというのは、ただの見せ掛けかもしれない。愛されている人間は十分こうしたことに気付いている。しかし、もしも(何も答えないという)答えが誠実であるなら、もしもその答えが、空白こそが雄弁になるような魂のおかしな状態を表象しているとしたら、つまり、普段のジェスチャーの連鎖に破たんが生じているとしたら、心が空虚に日常のジェスチャーの連鎖への再接続を追求しているのだとしたら、それはつまりバカバカしさの最初の兆候なのである。

つまり、舞台装置が崩壊している。起きて、バスに乗り、4時間事務所或は工場にいて、食事をとり、バスに乗り、4時間働き、食事をとり、就寝する。月、火、水、木、金そして土。同じリズムで。この過程はほぼいつでも難なく踏襲される。しかし、ある日、「何故?」が立ち上がり、全てが驚きに彩られた徒労の中に始まる。「始まり」これが重要だ。疲労感は機械的な生活における行動の終わりに来る。しかし同時に、それは意識の衝動を起動させる。それは意識を目覚めさせ、その後引き続くものを巻き起こす。引き続くものとは、漸次的に元の(単調なジェスチャーの)連鎖へ戻るか、或は、決定的な目覚めとなる。目覚めの終わりにはやがて結論がやってくる。自殺か回復か。(結論前の)徒労感はそれ自体悩ましい。この点においては、私は良いことと結論付けねばならない。というのも、全ては意識することから始まり、何ものも意識することを通さなければ何の価値もないのだから。これらの言明は何らオリジナルなものではない。そうではなくとも、明白なのだ。当面はそれで十分だ。バカバカしさの起源に関するごく準備的調査の段階においては。ハイデガーの言うように、単なる不安感が全ての源なのである。

Likewise and during every day of an unillustrious life, time carries us. But a moment always comes when we have to carry it. We live on the future: "tomorrow," "later on," "when you have made your way," "you will understand when you are old enough." Such irrelevancies are wonderful, for, after all, it's a matter of dying. Yet a day comes when a man notices or says that he is thirty. Thus he asserts his youth. But simultaneously he situates himself in relation to time. He takes his place in it. He admits that he stands at a certain point on a curve that he acknowledges having to travel to its end. He belongs to time, and by the horror that seizes him, [14] he recognizes his worst enemy. Tomorrow, he was longing for tomorrow, whereas everything in him ought to reject it. That revolt of the flesh is the absurd.同じように、そして、特筆すべきものも何もない日々の生活においては、時間が私たちを運ぶ。しかし、私たちの方が時間を運ばなければならないときは必ずややって来る。私たちは未来でもって生きている。つまり「明日」であり、「後で」であり、「あなたが道筋をつけたなら」であり、「十分に年齢を重ねた時に、あなたは理解するだろう」なのである。そのような(現在に対する)無関心さは素晴らしい。なぜなら、それは(訳注:未来を意識するかどうか?というのは)結局死にゆくことに関する問題なのだから。それでも気付く時は来る。「30歳になった」と述べる時が。そのようにして人は己の若さを言明する。しかし同時に彼は自身を時間との関係性に位置付ける。時間の流れの中での位置を決めるのである。彼は認めるのだ。終末へ向かって進んでいかざるを得ない道のりのとある屈曲点に立っているということを。彼は今や時間に属している。そして、彼を捉える恐怖によって、最悪の敵を認識するのである。明日。彼は明日を欲する。彼の中の全てはそれを拒絶すべきなのであるが。その肉体の反抗がバカバカしさなのである。(訳注:肉体は淡々と時を刻むのであり、そこに「明日」や「未来」はない。少なくとも、時に位置付けられた人間が想定するような「明日」というものはなく、求めれば求めるだけ、精神と肉体との距離は広がり、調和を取りづらくなってしまうのである。しかし、求めざるを得ない以上、何がしかのスキルが必要となるのである。)

A step lower and strangeness creeps in: perceiving that the world is "dense," sensing to what a degree a stone is foreign and irreducible to us, with what intensity nature or a landscape can negate us. (「明日」を求める、時間に位置付けられた人間の思考の)一段階下、馴染みのない感覚が忍び込んでくる。すなわち、世界が濃密であると感じる。一つの石がどれほど縁遠く、簡素化不能であるかを感じ、いかほどの強烈さで自然或は一つの景色が我々を否定するかを感じる。At the heart of all beauty lies something inhuman, and these hills, the softness of the sky, the outline of these trees at this very minute lose the illusory meaning with which we had clothed them, henceforth more remote than a lost paradise. 全ての美の中心に何か人間的でないものが存在する。これらの丘、空の柔らかさ、これらの木々の輪郭。まさにこの瞬間に、我々がそれらのものに着せていた幻想的な意味が失われる。そうなれば此の方、失楽園よりも遠い存在となる。The primitive hostility of the world rises up to face us across millennia. 世界の原初的敵性が立ち上がる。数千年紀を経て我々に対立するかのように。一瞬我々はそれを理解できなくなる。なんとなれば、数世紀にわたって我々はそれを、我々が予めしつらえたイメージやデザインでもって理解してきたのだから。そして、それが無効となった以上、我々はその人工物を利用する力を失うのだから。For a second we cease to understand it because for centuries we have understood in it solely the images and designs that we had attributed to it beforehand, because henceforth we lack the power to make use of that artifice. The world evades us because it becomes itself again. That stage scenery masked by habit becomes again what it is. It withdraws at a distance from us. Just as there are days when under the familiar face of a woman, we see as a stranger her we had loved months or years ago, perhaps we shall come even to desire what suddenly leaves us so alone. But the time has not yet come. Just one thing: that denseness and that strangeness of the world is the absurd.世界は我々の手をすり抜ける。世界はそれ自体になってしまうのだから。習慣によって覆われていた舞台風景はそれ自体になる。それは我々から遠くに退く。丁度よく知った女性の顔の下に、数か月いや数年前愛したその女を見知らぬ人として見る数日があるように、おそらく我々は、我々をとてつもない孤独に突然置き去りにするようなものさえ望むようになるのかもしれない。しかし、その時はまだ来ていない。ただ一つ。その濃密さとその見慣れなさが、バカバカしさなのである。

Men, too, secrete the inhuman. At certain moments [15] of lucidity, the mechanical aspect of their gestures, their meaningless pantomime makes silly everything that surrounds them. A man is talking on the telephone behind a glass partition; you cannot hear him, but you see his incomprehensible dumb show: you wonder why he is alive. This discomfort in the face of man' s own inhumanity, this incalculable tumble before the image of what we are, this "nausea," as a writer of today calls it, is also the absurd. Likewise the stranger who at certain seconds comes to meet us in a mirror, the familiar and yet alarming brother we encounter in our own photographs is also the absurd.人間もまた、非人間的なものを排泄する。とある明晰さの瞬間に、人間のジェスチャーの機械的な側面が、無意味なパントマイムが、それらを取り囲むすべてをバカバカしいものにする。ガラス仕切りの向こうで男が電話をしている。声は聞こえない。しかし、彼の無声の理解不能な見世物は見える。人間の持つこの日人間性に直面して感ずる不快感。我々自身の在り様を前にした計算不能の動転。今日の作家が呼ぶところの「麻痺」。これらもまたバカバカしさである。同様に、ある瞬間、我々を鏡の中に訪れる見知らぬ人間、我々自身の写真の中で出会う、よく知った、しかしながら驚かされるような兄弟。それらもまたバカバカしさである。

I come at last to death and to the attitude we have toward it. On this point everything has been said and it is only proper to avoid pathos. Yet one will never be sufficiently surprised that everyone lives as if no one "knew." This is because in reality there is no experience of death. Properly speaking, nothing has been experienced but what has been lived and made conscious. Here, it is barely possible to speak of the experience of others' deaths. It is a substitute, an illusion, and it never quite convinces us. ここにきてようやく私は死というものに、そして、死に対して撮る態度というものに到達する。ここにくれば、既に全て記述されており、余計な情緒は避けることだけが適当である。それでもなお、まるで誰も知らなかったかのように誰もが生きていることに十分驚いてはいないだろう。これは、現実において、死の経験というものがないからである。的確に言うならば、生きられ、意識されたもの以外は何も経験されていないからなのである。つまり、他者の死の経験について話すことがわずかに可能なだけなのである。それは代替物であり、幻想であって、我々を納得させることは決してないのである。That melancholy convention cannot be persuasive. The horror comes in reality from the mathematical aspect of the event. If time frightens us, this is because it works out the problem and the solution comes afterward. All the pretty speeches about the soul will have their contrary convincingly proved, at least for a time. From this inert body on which a slap makes no mark the soul has disappeared. This elementary and definitive aspect of the adventure constitutes the absurd feeling. Under the fatal lighting of that [16] destiny, its uselessness becomes evident. No code of ethics and no effort are justifiable a priori in the face of the cruel mathematics that command our condition.かの憂鬱な慣習(他者の死の経験について話すこと)は説得的とはなり得ない。恐怖は現実には出来事のうちの数学的側面によってもたらされる。もしも時間が我々を恐れさせるとすれば、それは時間が問題を形にし、解決はその後に来るからである。魂についてのあらゆる耳障りの良い説教は、少なくともしばらくばかりは、その逆を説得的に証明するのである。平手打ちが何の痕跡も遺さない不活性な肉体からは、魂は消えてしまっている。冒険のこの基本的で決定的な側面はバカバカしさの感覚を構成する。その行く末を致命的に照らす光の下、その無用さが明らかになる。いかなる倫理規範も、努力も我々の条件を決める残酷な数学の前では、既定のものとして正当化されないのである。

Let me repeat: all this has been said over and over. I am limiting myself here to making a rapid classification and to pointing out these obvious themes. They run through all literatures and all philosophies. Everyday conversation feeds on them. There is no question of reinventing them. But it is essential to be sure of these facts in order to be able to question oneself subsequently on the primordial question. I am interested—let me repeat again—not so much in absurd discoveries as in their consequences. If one is assured of these facts, what is one to conclude, how far is one to go to elude nothing? Is one to die voluntarily or to hope in spite of everything? Beforehand, it is necessary to take the same rapid inventory on the plane of the intelligence.繰り返させてもらうが、ここまで述べてきたことは全て何度も何度も言われてきたことである。私はここでは迅速な仕分けを為しただけであり、これらの明白なテーマを明示するのみである。それらのテーマは全ての文学、全ての哲学を通底している。日々の会話はそれらを取り込んで展開される。それらを再発明する必要はない。しかし、これらの事実を確認することは、かの原初的問いを引き続いて自身に問えるようにするためには必須なのである。再び繰り返させてほしい。私は、バカバカしい発見には、その結果ほど興味はない。これらの事実を確認させられた時、人はどのように結論するだろうか?どれほど何も逃避することはないとまで考えを進められるだろうか?自発的に死ぬべきなのだろうか?全てのバカバカしさにもかかわらず希望を抱くべきなのだろうか?それを問う前に、同じようにざっと整理する必要がある。今度は、知性の平面において。

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