VS.アルゴリズム
#note をコンスタントに公開していると、何のために書いているのか?誰のために書いているのか?というようなことを自問自答させられる。
それもこれも大して読んでもらえないから。
折角書いたんだ。さざ波ぐらいは起こしたいよね。
ただ、独自のやり方、とかとんでもなくエラソーなことを語っているように、すぐに成果を上げられるとも思っていない。
いや。真面目に。常識の範疇を飛び越え過ぎって思っている。
言葉は別に現実を書き表していない。
とか。
各自勝手に解釈可能。というよりも勝手に解釈している。
とか。
勝手に解釈自体は全く悪くない。
とかね。
非常識っぽいよね。
言葉なんてものはたまたまそういうカタチをもって現れ出たもの。
それは異なる能力やらその他リソースやらを持った人々が関わり合う結果として現れ出る。
なんてのも。
知識の民主化が中々一筋縄ではいかないのは、そういう言葉の実際・実態も、アンバランスな力関係の影響で解釈を捻じ曲げられてしまうから。力を持っている方の好みに合わせて。「確たる目的をもったルールがある!」「私たちはそれに従っている。」「従うべき!」云々。
私自身こうして現在使っている言葉は、知的に優れた人々が延々「こうでいいだろ」と検討してきた結果のものを使わされている。
そのように言葉にすることで、せめてもの抵抗の端緒を切ろうとしている。
無謀な試みかな?と思いつつ。
他方で、望みもあって、力のある方主導で変化させられてきている言葉のイメージといったって、現在アクティヴに蠢いているものは、ほんの数百年の歴史しかないということ。
啓蒙だの民主化だの言われ続けてますが、圧倒的大多数の人々は従来そんなものとは無縁に言葉を使ってきた。そりゃ至らない部分もあるのだろうけれど、賢い人たちが啓蒙だ合理性だと、そうした(遅れた)人民を教化しようとパワーを行使してきたつもりでも、現実問題として大した成果は上がっていない。
知識の民主化なんて、実質ゼロからのスタートなんだろうと。
ゼロからのスタートとはいえ、知識は私たち人間のこの世に存在する仕方なので、どちらかというと、私たちに知識を返す、取り戻させる、というニュアンス。
とはいえ、やはり、啓蒙はされていないわけだから、今まで通り適当にやってていい、ってことでもない。
まあまずは自らのポテンシャルについて知らないと。その先には進めないのでは?
というとまたまたきっちり何かを学んでからアクションだ、というように理解されるかもしれないけれど、自らのポテンシャルを知るというのは、もうそれ自体が自他関係の見直しやそれに沿ったアクションの変化を暗示している(自己3面説ご参照)。
『珍しくアクション推奨』のノートでも語った通り、言葉というカタチになって残されるものはたまたまでも、そうなるには現実に生きている人々がいて、現実の人々ってのは正確にロジックを刻むマシンでもなければ、何の予測もつかないデタラメな振舞いをする何かでもない。つまりはとあるパターンをパフォームしている。
パターンという言葉は幾何学的な文様を想起させやすいかもしれないけれど、ストーリーとかストーリーライン、プロットとか言われるものの方が近い。
私たちが行動する時は、無意識にとられる行動であったとしても、心の動きにつながるような何らかの現象が起きている。
その「何らかの現象」というのは、全くの個々人に固有の(その個体にだけ起きている)現象であって、アプリオリに複数の異なる個人間で何かが共有されているということはない。
他者の何かと繋がっているかどうか?も個々人それぞれの想像上の出来事だということ。
そうした個々の想像力、それでもって様々なストーリーを仕立て上げる技。これがあるからこそ、個々人の性質であるとか能力であるとかがパフォームされる。言葉はそうしたパフォーマンスが残す一つのカタチ。
とあるパフォーマンスから、そこでやり合われている技を読む。技は大体において地位や物的・金銭的リソース、文化的・知的リソースなどなど、有形無形様々ではあるけれども、私たちにとって把握しやすいカタチで言葉が与えられている。
言葉というカタチのお陰で、どんなところにどんなものがどれぐらい分布しているのだろうか?ということだって”想像”はできる。
それらは何も現実の動かぬ証拠とか、現実の様々な出来事を統御している原理原則とかいうものではない。
ただただ関係者それぞれのポテンシャルを”想像”して、もって関係者間の関係性(主に力関係)を”想像”する。
「想像力で読む」という意味で、言葉はいわば全てがフィクション。
現実はそれぞれがフィクションを読みながら想像力で突き止める。それぞれが納得いくものを。
「事実は小説よりも奇なり」と言われるのも至極当然。
特殊な能力を授けられて架空の世界を築き上げられる人々が小説などをカタチにしてくれる以前に、私たちは”リアルな”フィクションを読み書きし続けているのだから。
私たちはこの世に存在するだけでも読まれる。
こうしたラディカルに常識を逸脱する考えを広めるのに、土台となるものは、知識の理解。
繰り返します。
知識とは私たち人間のこの世に存在する仕方。
科学であろうと芸術であろうと、挨拶や、無ジャンルのなんでもない日々の言葉であろうと、全て知識。私たちがどのようにこの世に存在しているか、存在したかを教えてくれるもの。
読み書きし合うのはポテンシャル。事実とか証拠とかではない。
ポテンシャルは、あり得べき現実を比喩的に示してくれるストーリーを介して類推する。オートマチックに(個々のポテンシャルを含む)事実を語ってくれる言葉なんてものは想定しない。
そんな感じで言葉なんかも捉え直す方が”いい”と信じてはいるけれど。
まだまだトレンドに乗りそうな実感はない。
しつこくしつこく考え、出力し続けるつもりではあります。
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