アクションとしての「考える」
「考える」
「考える」って一応アクションよね?
本マガジン『動的平衡の社会学』において、だけではないけれども、私は極端にアクション嫌い。というか。。。
みんなして急いで動きまくろうとする風潮に対して「それってどうなの?」と疑問を呈し続けている。
そこへきて、「考える」をアクションだなんて言っても、苦しい屁理屈やアクションに対する皮肉にしか聞こえないかもしれない。
実は結構真面目。
「考える」という行為は、「与える」ことではないか?と。
「考える人」とは「与える人」。
何を?
アイデア。
もっと具体的には、
ポテンシャリティ(潜在能力)を比喩的なストーリーなどで可視化して、ポテンシャルの持ち主が、これを活かして考え、行動するチャンス。
「考える」というのは通常個々人の中で行われているように理解されるけれども、そうでもないんじゃないか?と。
考えたことがその人のもの(排他的所有物)だなんてねぇ。
ちょっと考えてみたら、全く事実と違っているように見えてくる。
考えるきっかけって多くの場合外から来るし、考えたことを人に話したくって仕方なくなっちゃったりするのって、自慢だけじゃなくて、結構ピュアに「聞く人のため」って思ってたりもする。
関係性の中で私たちは生きているんだから当たり前なのかもしれない。
ただ、昨今は、個人が考えたことは個人のものという考えが支配的。
なんとかこれを覆すには、自他を繋ぐものについて、多くの人が納得しやすいようなフォーカスを与える必要があるように思える。
それが既に言及したポテンシャリティ、とか、ポテンシャル(上記枠内ご参照)。
事実を記述して伝えるのでもない。
因果関係を明らかにするでもない。
技についての記述かな。
何の技?
個々人が、基本的に自分自身の、ストーリーを語る能力。というのが近いと思う。
「自分自身のストーリー」とはいえ、必ずしもオートバイオグラフィー(自伝や自分史)ってわけではない。
オートバイオグラフィーといえども結構多様な他者が登場するように、「ストーリーを語る能力」というのは、様々な人物同士や、置かれた環境との関係などなどを、意味が通るように関連付けられないといけない。
「意味が通るように」というのも、ストーリーを語る人にとってだけってことはなくて、聞く人から見て意味が通るか?についても多かれ少なかれ検討されている。
要するに自己3面説の三面ぐるぐる。
自分のことも他者のこともいろいろと考える。
ただ「いろいろと」だと焦点がぼやけるというか、ちょっと漠然とし過ぎていて、「考える」というアクションに具体的に何かを反映させる、というのが難しい。
「いろいろと」に含まれるもので、案外当たり前に見過ごされているというか、事実であるとか因果関係とかいうものの陰に隠れがちなもの。
それが私たちがほぼ無意識的に実践している様々な技。
この技が格闘技の技っぽく「交換されている」イメージ。
「個々がパフォームしている」というよりも。
つまり、「考える」というアクション(アクションとしての「考える」?)では、「できること」とか「できないこと」とかが、異なる立場から語られ、時に衝突なんかしたりしつつ、受け止められ、”落ち着き先”(動的平衡状態)が表(著)されていく。そんな感じ。
この”落ち着き先”というのは、別にどこかの誰かのリアリティとかではなくて、起こり得るストーリー(成り行き)の一つ。フィクション。
つまり、客観的事実だとか、動かしがたい証拠だとかいうものではなく、展開されるドラマから、登場してくる人物同士、その他事物との関係を読み解く。というか想像する。そうすることによって究極的には人物同士の力関係を知る。というよりも”類推”する。
「社会関係は力関係」「平等はない」「平衡は常に動的平衡」などなどと言ったとおり。
また、動的に平衡状態が現れる場合、同様のアンバランスが繰り返し現われ、固定化し、強い方が益々強くなる傾向がある。でも、社会全体としては安定しているようには見える。
これらの安定的に見えるんだけれども実は動的なプロセスに含まれている動きをできるだけ丹念に見てみる。
「考える」ことによってチャンスを「与える」というのは、そういう仕組みを説明するのではなくて、見ちゃった以上は、多少なりとも修正が働くように、アンバランスについて語るということ。
そうした語りについては、往々にして、証拠を示して、事実に基づいて改善を促す(アンバランスを修正させる)、というアプローチが最も合理的と思われがちだけれども、私たちのリアクションってそれほど迅速でもないし、改善に向かってさえいないのが現実。格差はどうやら拡大中。
「客観的事実に基づいて淡々と」が悪いというわけじゃなく、イマイチ私たちをインスパイアするには弱いと見た方がいい。逆に一人一人の参画というか、エンゲージメントの感覚が弱められるような印象がある。
私たちが考えたことを表すのは言葉による場合が多いけれども、そうして残される言葉というのは、誰かにとってのリアリティみたいなものでも、客観的事実の記述だ、ということでもない。
どちらかというと、たまたまそういう形になって表れた、という方が近い。要するに、絶対そうでなければならない、というようなもんではない。お堅い言い方をするなら、論理的必然性はない。
登場してくる人物達のポテンシャリティを明らかにする、というのは、起こる可能性がありそうなストーリーという”比喩的なモデル”を示して、それぞれの人物にそれぞれのポテンシャルに気付いてもらう感じ。「こんなことできてはるんちゃいます?」みたいな問いかけ。
真のポテンシャル、実際に実践されている技については、個々人それぞれにしか分からない。
ましてや自他のポテンシャルのアンバランスがために、とある現実に甘んじなければならなくなる経緯なんてことになると、他の人のストーリーなんてのは、かなりラフな推量ぐらいしかできない。
そんなラフな推量をあたかも現実、真実のように扱うというのは、いくら意味の通るストーリーではあっても、「与える」アクションというよりも、決め付け、強制だろう。
あり得べきポテンシャルについてもかなり曲解されるか、見過ごされがち。
各自のポテンシャルについては、各々が「はっ」と気付いて知り直す感じ。そのような気付きが訪れやすくなるようなアイデアをプレゼントする。
「考える」がそんな気付きのチャンスを「与える」アクションになるように。
言葉の扱いについてもまだまだ学び直すことは沢山あるように思える。
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