「色のない日」のわたしへ

 戦略的にものを書けるほうではない。

 なにかねらいがあったり、プランがあったり、日々最低保証を守りながら書くことができるタイプではない。そこは認めざるを得ない。

 自分の「気まぐれ」にほとほと呆れるけれど、良くも悪くも、その時の精神状態というか、もっとひらたくいうと「テンション」が如実に文章にあらわれる……というか、下がると単純に、書けなくなる。
 この数日、慣れない作業に忙殺されてそれを痛感している。忙しいからといって必ずしもそうなるわけでは、ないけど。


 私が文章を書けないとき、それは「色」が飛び込んでこないときだ。
 心が元気ならば、どんな日常の中にだって鮮やかな色を見つけられる。色が入ってくれば自然とそれを書きたくなる。
 でもふと気がつくとこんなふうに、「あれ……?」となることがある。書けない、と。
 疲れているという自覚がなくても、言葉が出てこないなと気づいて振り返ってみると、なんというか、何を見ても「色褪せている」。

 もちろん、物理的な色の見え方が変わるわけではない。夕日を見てその色はわかるし、きれいだな、くらいは思える。でもそれ以上ひびかない。私がそれを書く、描くためには、その向こうに見えるさらなる「色」が必要らしい。

 ものの表面の色しか入ってこないとき、私は「文の書き方」そのものを忘れたみたいになる。どうやって書いていたのかわからなくなる。
 私はときどき、空を飛ぶ夢を見るのだけど、大抵は、夢の途中で「あれっ、どうやって飛んでいたんだっけ」と考えてしまい、その途端なにをどうしても飛べなくなってしまう。ときどきフワッと浮く感じを残しながらも、そもそも飛び方を知って飛んでいたわけではないということを思い出してしまうのだ。
 文が書けなくなるときって、そういう感じだな、と思う。


 私の心がものの表面を通して見ている「色」は何なのだろう。
 私は私をもっと知りたい。
 いろいろな表現のタイプがあると思うけれど、私は受け取って衝き動かされることでしか表現ができない。ものごとは私のなかを通るだけ。
 だから、受信機がうまく働かないと何も発信できなくなる。

 アンテナが全開だと、持て余すくらいにことばやアイデアにあふれるけど、それらは全部、何かを受信して自分の文脈に取り込んだだけのものなのだ。自分の中から生まれるものの出処を、ちゃんと知っている。
 そして、そのことに対して自覚的であることを含めて、そういう自分を肯定的に捉えている。
 だって、それって私がこの世界のあらゆるものごとを愛している瞬間だから。

 だから、色の向こうに色が見えない今日のような日は、悲しい。

◇◆◇

 悲しいけれど、悲しいなりに書き始めてみれば自分のなかを旅することができた。
 たぶん、絶好調のときだけではなくて、そうでない時の精妙な心の在りようのちがいを残しておくことの方が、「自分ドキュメンタリー」としては意義深いことなのだろう。

 ふだん、色鮮やかな世界にフォーカスしていると、色が感じられないときの自分のことは存在しないように扱ってやりすごしてしまう。
 ないがしろにした自分自身のしっぺ返しがいかに大きいかということは、いやというほど知っている。

 これから何度も訪れるであろう「色のない日」を、私はどんなふうに受け入れてあげられるだろう。

 馬車馬にだって闘牛にだって休息はあるはずだ。動けない馬や牛をどれだけ叩いても、だめなときはだめだろう。

 他人に対してそうであるように、自分に対しても敬意を払わなきゃいけないね。
 相手に敬意を払うってことは、思い込みや希望的観測の押しつけでなく、まずありのままを“見る”ことが最初だ。だから、自分に対してもそうしてやらなきゃいけない。
 テンション上げろよ色を見ろよって叱咤激励しがちな自分を反省しつつ。

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