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シルクロードの歴史7『ローマとシルクロード』


*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。

1. 古代ローマとシルクロードの関係


 前30年、ローマが先ほど触れたカエサルの死後のオクタウィアヌスとアントニウスの内戦の結果、プトレマイオス朝エジプトを併合、同時にオクタウィアヌスが君主の存在しなかったローマの君主、皇帝となりローマ帝国が誕生する。

オクタウィアヌスもといアウグストゥス

 すると、今までは地理的な問題から近東やエジプト、レバントなどを通してしか行えなかった、中国、東南アジア、インド、西アジア、東アフリカなどとの貿易が非常に盛んに行われるようになった。

 要因としてはアレクサンドロス大王の侵略の後に出来たセレウコス朝シリアやプトレマイオス朝エジプトなどのギリシア人の国々、いわゆるヘレニズム諸国が築いていた、シルクロードの一部分を、旧ヘレニズム諸国 領土拡大を行ったローマがそのまま継承し支配した事があり、これによりローマは更なる繁栄を迎えることとなった。

 また、ローマの重要な輸出品だったローマガラスは先述の通り中国でも出回っており、最も東では現在の韓国の慶州(キョンジュ)、当時の新羅の首都金城(クムソン)でも発見されている。

ヘレニズム諸国 by User: Duccen

 ちなみに、ローマがエジプトを併合する以前の前130年頃、プトレマイオス朝の王プトレマイオス8世の支援を受けたキュジコスのエウドクソスという人物が紅海を経由してエジプトからインドへの航路を確立していて、ストラボンという学者によれば、オクタウィアヌスによりローマに併合された頃には、毎年120隻の貿易船が紅海の港町ミオス・ホルモスからインドへ送られており、ローマ船はバリガザ(現バルーチ)やバルバリクム(現カラチ)を通りインド西部海岸を回ったと思われる。

ストラボン

 また、1世紀半ば頃にローマ領エジプトのギリシア人の何者かによってインド洋周辺の海洋貿易について書かれた航海書「エリュトゥラー海案内記」というのが残っており、残っていることの少ない古代のアラビアや、東南アジア、南アジアの情報を得ることのできる重要な資料となっている。

エリュトゥラー海案内記に登場する地名 by User: George Tsiagalakis

2. 絹への熱狂と大陸横断貿易


 2世紀初頭頃には記録で残る限りでは初めて、ギリシア人のマエス・ティティアノス一行が中国目前のタリム盆地まで絹を買い付けに行き、その道のりを記録して西方に伝えており、それ以前から、グレコ・バクトリア王国やインド・グリーク朝などの南アジアや中央アジアに移りすんだギリシア人などがタリム盆地まで行っている可能性は高い。

 しかし、ヨーロッパで生まれた人物が直接ここまで東方の世界に出向くのは初めてかもしれないとされ、また、時代背景的にティティアノスはローマ帝国の支援を受けて商売を行なっていた可能性があるとされる。

ティティアノスの時代の地図

 この頃には、大陸を横断するレベルの貿易は定期的に行われており、国家による支援や保護が行われて、さらに大規模な貿易が行われ、特にアルサケス朝パルティアを通してローマに輸入された中国絹はローマの人々に熱狂を与え、とてつもない価格で取引されるほど人気になった。

絹を着るローマの上流階級の女性達

 しかし、当時のローマ人は、絹は木からできると思っていた上、先述の通り中国は養蚕技術の流出を厳しく規制しており、生産は不可能で、二代のローマ皇帝に使えた政治家でもあり哲学者や文学者としても有名な小セネカや、ラテン文学黄金期の詩人ウェルギリウスなどは自身の著作の中で、絹の人気を記している。

セネカ

 また、ローマでは絹は木から出来ていると思われたとしたが、大プリニウスにより書かれた「博物志」の中では蚕の繭が絹になる事が記されているためそれを認知している人物もいたであろうと思われる。

大プリニウス

 しかし、前1世紀頃のローマが共和国から帝国になった頃、初代皇帝アウグストゥスとなっていたオクタウィアヌスは、絹を運んでくるパルティアにローマの金が流出してしまう事などを危惧、絹製品の着用を全面禁止とした。

 しかし、それでも先述の通り、貴族の間ではある程度出回っており、超高級品として人々を熱狂させた。

 また、1世紀から3世紀頃には月氏人がクシャーナ朝として領土拡大を行って、インドや中央アジアを支配、同じく中央アジアに進出してすぐ近くまでやってきた漢とも交流し、さらにインドにやってくるローマの貿易船とも交易を行っていたとされ、ローマと中国を結ぶ国家となっていた。

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