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「普通」という言葉を持ち出したら、こじれる

言葉の行き違い、ということについて今日は書いてみます。

息子とは、ちょっとした言葉の行き違いで、こじれることがよくあります。


最近あった話。

コンビニで買ったチョコアイスを食べて「このアイス、苦い!」と食べるのをやめる息子。
私も一口かじると、普通にチョコ味。
「これのどこが苦いんだか」と私が言った途端、うつむいて不機嫌になり、彼は離れていきました。


また、ある時、図鑑にのっている古生物を見せて
「どう?これかわいいでしょ!」
(え〜、どうみてもグロいし、かわいいなんてどういう感覚?)
その時の私の返事は「う〜ん、お母さんにはちょっとわかんないな〜」

この場合は、「そうか」で終わりです。


ふたつのやりとりで、何が決定的に違うと思います?

チョコアイスを「苦い」と言った息子に対し「お母さんには苦くないよ」と言えば、きっと怒らなかったんじゃないかなー、と後で気づきました。


「どこが苦いんだか」には主語がありません。

日本語の特徴ともいえるのですが、お互いに共通の認識、と思って話している時、主語は「私」でも「あなた」でもなく、「世の中」とか「みんな」になっているのです。
たとえば、「暑いね」といえば「うん、暑いね」
みたいな会話。


息子の「苦い」は、息子特有の感覚を言っていたのに、私が勝手に主語を「みんな」に変えて「苦いわけない」にしてしまったのです。
こういう、主語の取り違えミス、結構頻発します。


マスク着用についても、こんな会話をしたことがあります。

「マスク嫌だよー」
「みんなしてるよ」
「俺は取りたい!」(と無理やり外そうとする)。

この時、商業施設に入る前だったので、「説得しなきゃ!」と私がした説明↓

「みんな、マスクしてるね。大勢の人が集まるところに行くには、それがルールだから(今はね)。お母さんだって本当は嫌なんだよ。だけど、我慢してつけているの」

正直、こんな説明で彼が納得するのか、半信半疑でした(汗)
でも、息子の体から力が抜け、そこからは「マスクとりたい」とは言わなくなりました。

おそらく、「みんなしてる」は彼にとっては意味のない基準でしょう。
目の前のお母さんも自分と同じように我慢してる、というのが、言われて初めて分かったので、「じゃあ、俺も我慢する」となったのです。
てことは、言われるまでは、
「俺だけが辛いと思っている、ちくしょーマスクなんて!」
って感じだったわけです。

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息子は「自分自身の感覚」については、かなりストレートに明確につかめるようですが、「他者」がどう思っているかについては、いちいち推測しない脳を持っています。

つまり彼にとって、「普通はこうだよね」とか「当たり前だよね」という基準は、まったくナンセンス!

冒頭のチョコアイスだって、100人中99人が「甘い」と認識していても、彼にとっては「苦い」のです。

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だけど、「普通」って言葉、それこそフツーに使っちゃってますけど、考えたら怖い言葉で。
だって、誰にとっての「普通」なのかがわからないんだもの。

お医者さんとか何かの専門家の人に、「普通はこうですよ?」みたいに言われたら、「ヒ〜、私間違ってたんだ、すみません」って感じになりません?

こうして今も世の中の、誰かにとって都合のよいことが「普通」として押し付けられようとしてるんじゃないか、そんなふうに疑いたくなってしまいます。


あなたにとっての普通は、私にとっての普通じゃない。
世の中の普通なんてなくて、ひとりひとりの普通が転がってるだけ。


息子が「苦い」と確かに感じる、その感覚を、共有はできなくても尊重してほしい。そういう意味だったんだと気付かされた、甘くて苦いチョコアイスでした。


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