見出し画像

[小説連載]絡新婦 #3(期間限定 全8話+あとがき 無料公開 毎日20時連載)

・毎日20時次章掲載予定(予期せず変更もございます。ご了承下さい。)
・過去作の記事は基本期間限定無料公開のため、予期せず無料公開を終了する場合がございます。
 予めご了承ください。
・一気に読みたい方は、Amazon Kindleにて絶賛発売中
    絡新婦(2019)
 (Kindle Unlimited会員の方は無料で読めます)
・Amazon Kindleのみ(電子書籍のみ)の販売です。ご了承下さい。
・Noteアプリを使用するとより読みやすいかもしれません。
   iOSはこちらからダウンロード
   Androidはこちらからダウンロード
各話リンク
#1(第1話)
#2(第2話)
#3(第3話)
#4 (第4話)2020/07/21(火)更新予定
#5 (第5話)2020/07/22(水)更新予定
#6 (第6話)2020/07/23(木)更新予定
#7 (第7話)2020/07/24(金)更新予定
#8 (第8話)2020/07/25(土)更新予定
#あとがき2020 /07/25(土)更新予定

 彼の現実での職業は販売員だったらしい。元々株やFXに興味があり趣味として以前からやっていたらしく、私が困っていたときに声をかけてくれた。そして彼が所属している株取引を行うサークルに招待してくれた。彼が懇切丁寧に教えてくれる事で私の副業での収入も少しは増え、そのお金を貯金することはもちろんだった。また、少しお金にも余裕ができたので本来の目的とは違ったが、巴と一緒に食事に行ったり、巴に洋服を買ってあげたりした。しかし、そのお金を自分の事に使うことは一切なかった。夫にも副業を始めたことは話してはいたが、助けてくれた彼の事については一切話さなかった。たぶん薄々勘付いてはいたのだろう。

 私は、暇を見つけては副業に関する事を調べたり、仮想世界で彼と話したりする事で日々のストレスから気を紛らわせていた。いや、紛らわせた気分でいた。夫が帰ってくるのが遅くなり始めたのもそれぐらいからだった。夫の帰りが遅いのもあって、夜はネットで副業の合間彼と話をするようになった。
 彼と話した内容は、自分は今は専業主婦で、娘や生活のために副業を始めたということからはじまり、日頃の外の生活での鬱憤、夫のこと、子どものこと、その他にも様々なことを話した。彼は私が時折漏らす愚痴を黙って否定せずに聞いてくれた。彼自身のことも沢山聞いた。彼は離婚経験がありバツイチで元妻との間には子どもはいなかったらしい。離婚してからは職場でも成績が伸び悩んだそうだ。何せ前妻とは職場内恋愛の末の結婚というのもあり、それが仕事にも響いたのだと彼は話してくれた。

 私は次第に、毎晩彼と会話をしたいと思うようになっていた。朝食を作り、巴を幼稚園に送り出す明け方までは一睡もせずに、昼間に寝るような昼夜逆転した生活になっていった。幼稚園や地域の会議がある日は寝ないことすらあった。彼とネットで会う頻度はますます増えていった。私たちは副業以外でも二人で行動を共にするようになった。
 仮想世界には様々な幻想的な世界があったが、私たちは専ら現実の居酒屋のような場所に二人で胡坐をかいて座って呑んだり(あくまで仮想空間なので真似事だが)、バーのような静かな場所で会話したりした。それがいくら仮想での事だと分かっていても、私の心は楽になっていた。いや、楽になった気がしていた。私の欲求が晴らされていなかったことは、私自身が身を持ってわかっていた。

 彼と会話した日の明け方は必ず、巴を幼稚園に送り出した後に自慰をするようになっていた。彼を思ってすることはなかったし、夫を思ったりすることもなかった。ただ、自分の中に溜まった膿を出すかのように、自慰をした。そんな行為で一時的に気分は落ち着かせることは出来ても、次第に私の欲求は益々大きくなっていき、その欲求の原因が彼に対する思いではないかと思うようになった。そう思おうとしていたのかもしれないし、それはわからない。
 そんな欲求が私を益々蝕んでいく中で、巴は私に甘えようと必死だったのだろう。今はそう少しは思える。あの子をもっと見てあげられていたら、私も今こうしてはいないだろう。

 ある日の夕方、どうしても我慢できなくなった私は、巴が遊びに出かけている間に自慰をしていた。しかし途中で巴が帰ってきてしまい、玄関の扉が開く音がしたので慌てて服装を整えた。私はパソコンに向かっていた振りをして、巴の方を振り向かず「おかえり、帰ったの、早かったね。」と言った。巴は「おともだちはようじがあるって」と答えた。私は行為が途中だったからか、自分でも抑えきれないほどに気持ちが昂ぶっていて無性に気が立っていた。最初は巴もテレビを点けて、静かにアニメを見ていた。でも飽きてしまったのか、ソファの背もたれに両手をついてパソコンの前にある椅子に腰掛けている私に喋りかけてきた。喋りかけてきた巴に対して「うん」や「ああ」と答えていると、巴は私がはっきりと受答えをしないためか、もしくは単に自分の方を向いて欲しかったのか、私の髪を引っ張ったり、椅子を揺らしたりしてきた。私が「やめて。巴」と嫌がると「なんで、こっちを向かないの?」と巴が訊ねてきた。私は益々紅潮していく顔を見せる事は出来ないと思い、巴の方を向くことが出来なかった。それに巴の振る舞いに対して、自分でも抑えきれないほど、どんどん気分が興奮してきていることにも焦り始めていた。すると巴が悪戯するのをやめてこう言った。

  「お母さん、なんでかまってくれないの」

 私は「今仕事中だからよ。」と気持ちが昂ぶっているのを声に出さないようにして答えると、巴が「おとうさんは、あそんでくれるのに。」としょんぼりした。自分を落ち着かせながら、巴の方を向いて「おかあさんとも、お買い物にいったりするでしょう?」と言うと、巴は「さいきんは、いかないよ」と口をとがらせながら言った。
 たしかに、最近は何処にも一緒に出かけていなかったので「ごめんね、お仕事終わったら何処か行こうか」と誘ったのだが、突然巴は何を思ったのか、私の顔をじっと見つめて「おかあさん、こわい」と言った。私は少し驚いて、「なんで?」と聞き返すと「さいきんは、おそとにもでないし、かみはぼさぼさだし、きたないよ。」と答えた・私がそれを聞いて笑っていると「それに、おかおがまっか。あかおにさんみたい」と言って、巴は私の方を指差しクスクスと笑った。あまりの恥ずかしさを誤魔化したい気持ちと、自分の気持ちの興奮を紛らわそうとして「鬼さんだよー」とふざけてみせ、巴に近づいて手を伸ばしたが避けられた。もう一度手を伸ばして抱き上げようとすると、今度は突き放された。「何で逃げるの?」と私が不思議に思って訊ねると巴は、私にこう言い放った。

  「おかあさん、きらい」

 それは巴が今まで発した声の中で最もはっきりとした落ち着いた声だった。そして、巴が今まで発した言葉の中で私が最も傷ついた言葉だった。その一言で、私が今まで巴のためにと思ってしてきた我慢は一気に決壊し、溜まりに溜まった不満の一切をアドレナリンへと変貌し、全身に駆け巡るような怒りを生み出した。私はその昂ぶりきった感情を抑えることが出来ず、次の瞬間には巴を抱き上げようとしていた手で巴に平手打ちを放っていた。しまった、と思った時にはもう遅かった。
 即座に「ごめん」と謝って、巴を抱きかかえようとしたが、巴は私が抱きかかえようとした手を振り払い、しっかりとした足取りで立ち上がって、私をじっと見つめた。私を貫くように見つめるその瞳には涙が溜まってはいたものの、その涙は流れ落ちることはなく、その瞳に透き通った硝子のような膜をはっていた。私は謝ったきり、それ以上は言葉も出ず、ただ膝から崩れ落ちてぼろぼろと涙を流した。それでも尚、巴は真っ直ぐ立ったまま、ただその透き通った硝子のような瞳で私を見つめていた。

 それから何とか無理やり自分の気持ちを取り繕って、巴に再び謝ったが、巴はただ頷くだけで目を合わせてくれなかった。その晩夫は珍しく早く帰ってきて、巴の腫れた頬を見てどうしたんだと巴に訊ねた。しかし巴はその質問に対して答えることはなかった。今度は私に向かって夫が、「あれはどうしたんだ?」と訊ねてきて、私が返答に困っていると、夫が巴に「お友達と喧嘩したのか?」と笑いながら訊ねた。巴は首を左右に振るだけだった。夫は訝しげに私の方を見て首を傾げた。夫は巴を寝かしつけた後、食器を洗う私のところにやってきて「それが終わったら少し話そう」と言ってきた。

 夫はまず「巴のあれはどうしたんだ…?何か本人から聞いてないのか…?」と私に訊ねてきた。私がその質問に答える事が出来ずにいると、夫が「お前も心配で落ち込むのは分かるが、本人が言わないのはしかたないからな。とにかく心配だから、明日お前から先生や周りの親御さんにも聞いてみてくれ―」と言ってきた。その瞬間に「その必要はないわよ」という言葉が私の口を突いて出た。夫は「何故だ」と表情を曇らせた。私が押し黙っていると夫が、

 「お前が叩いたのか?」

 と聞かれて、さらに何も言えなくなり俯いていた。何が起こったか説明しようとは思ったが、洗いざらいすべて話してしまうのは非常に嫌だったし、どうして自分が巴の頬を叩いてしまったかを旨く説明できる自信がなかった。私自身ですら様々な疑問が渦巻いている状態だった。押し黙っている私に夫は、「最近ずっとお前様子がおかしいぞ。深夜まで何をしてるんだ。」と話題を変えて訊ねてきた。私がそれでも黙って、俯いていると「たしかに家の事はしっかりしてくれてるけど、なんだか様子がおかしいぞ。」と言うので、「大丈夫何でもない」と答えると「子どもを叩いて、何でもない事はないだろう」と即座に言い返してきた。

 「お前、浮気してるんじゃないか?」

 私は全身がひやっとした。彼とはそういう関係ではない。でも、確かに浮気に似た感情を抱いていたかもしれないと気づき始めると同時に、今まで自分がやっていたことにさまざまな理由が結びついていく事にまた焦りを感じた。そして、その焦る気持ちを覆い隠すように、夫に対する不満が言葉となって口から出た。

 「あなただって、帰りが遅いじゃない」

 そこからは、ただお互いを非難しあうだけだった。夫は私に、お前は深夜一体何をしているんだということから始まり、副業の収入は巴のためだと言っていたが本当は何に使っているんだ、俺はきちんと家族で生活が出来る程度の金は稼いでいる、それでも不満なのかと怒鳴り始め、私も私で、あなたは子育てや家事も手伝ってくれないじゃないとか、地域や幼稚園の役員も私一人に押しつけたじゃないとか、その不満をすべて一人で抱えてきたのは、あなたが仕事で大変そうだと思ったからなのにと、お互い言わずに過ごしてきた日々の不満がそこで一気に爆発した。そんな事を声を荒げて話していたので、巴が起きてきてしまい、話は途中で終ってしまった。

 翌日目が覚めた頃には、夫は出張で出かけてしまっていたので話す機会もなかった。巴は私よりも早く起きた夫と一緒に朝食はパンを食べたとだけ言い残し、私を避けるようにして近所の友達の所に行ってしまった。それから数日経っても私と巴と夫の関係が改善される事はなかった。
 私は今まで以上に仮想空間の彼を求めるようにな った。彼もそんな私に最初は真摯に接してくれていた。しかし、次第に彼とも段々連絡が取れなくなった。心配になってサークルの知り合いに彼の事を訊ねてみると、他の人にも株の事に関して指導しているのだと話してくれた。彼も実生活共に忙しいのだろうなと納得していたが、数日後別の知り合いから、その彼が教えている相手がどうやら女性であると聞き、私は彼に対して腹立たしくなった。

 私の実生活は日が経つごとに益々荒んでいった。まず、体調が思わしくなく片頭痛に悩まされるようになり、地域や幼稚園の役員行事も休みがちになっていった。次第に何に対しても無気力になり、家事さえまともに出来なくなった。そんな中でも、唯一の安らぎである仮想空間にだけは毎日インしていた。
 彼がオンラインの時に何度も連絡したが、返事は貰えなかった。「私を嫌いになったの?」とメッセージを送ってから数日後、彼から連絡が来て仮想空間で会って話がしたいと言われた。私は彼と会って、何で返信してくれなかったのかと訊ねると「忙しくて用事があった」と彼は答えた。「最近はお互いにずっとオンラインだったし、一度くらい連絡をくれてもいいじゃないか」と私がまくし立てると、彼は「なんで、僕の行動まで君に管理されなければいけないんだ。」と言い返してきた。私は暫く間を置いた後、さらに続け様に

 「別の女性を指導してるみたいね。きっと私みたいな人間と一緒にいるよりもそっちが楽しいのね。」

  軽い気持ちで嫌味っぽく言った。すると彼が、

 「正直、重たい。僕は君の何者でもないし、ただの知り合いの一人にしかすぎないだろう。君が僕をどれほど好きだとしても、僕には何も気持ちはない。」

  あまりの突然の事で、否定も出来ず押し黙っている私に対し、彼は更にこう言った。

 「幾ら僕たちがどれだけお互いに知り合おう思って、声を聞いたり、顔写真を交換したり、お互いにウェブカメラを使って顔を合わせて話をしたりして、お互いの理解を深めようとしたところでそれは実際の姿には一向に近づきやしないしフィクションにしかすぎないよ。」

 私はもう何も言い返せなかった。その後、彼は私ともう知り合いでいる事も出来ないと告げ、私の前に二度と現れることはなかった。私もそれから仮想空間に出入りする事はなかった。私は実生活、仮想空間共に何もかも失った。いや、最初から私の手には何もなかったのかもしれない。
 仕事を探すと言い出したあの時も結局は夫のいいなりで、やっと始めた副業さえもこの有様だ。子どもを助けよう、家族のためになろうと思って何かすればするほど空回りするばかりで、終には自分自身までも見失ってしまった。


 夫と結婚するときも、母親から反対されていた。私の父は私が幼い時にはもう亡くなっていた。いや、正確なことは未だに知らない。亡くなっていたのか、それとも離婚していたのか。私の夫は、結婚直前に浮気をしていて、それでも夫が好きだったので結婚した。そのときの浮気というのも確証はなく、ただ女性の気配がしたに過ぎなかった。いや、過ぎないと思い込んでいたのだろうか。
 私は今まで自分の生まれた家族のことに関しても、作り上げてきた家族に関しても、何一つ見ようとしなかったのかもしれない。だから私の手には何一つ大切なものは残らなかったのかもしれない―


 巴が幼稚園を卒業する前の月。夜中に帰った夫が、「大事な話がある」と寝ていた私を起こした。ぼんやりとした心地で薄明かりのリビングへ向かうと、そこで差し出されたものは離婚届だった。既に離婚届には夫の名前、現住所、本籍が記入してあった。私は「ああ、そうか。」と、ただそうしか思わなかった。決して目の前で起こっていることが、自分が寝ぼけていて夢から覚めていないのではないかと思っていることもなく、ただ目の前の現実を理解した上で渡されたペンを手に取り何も言わずに署名した。夫は、「もうお互い、苦しむ事はやめよう」とかそんな事を話していた気がする。私はただその緑色の線で囲われた書類を呆然と見ていた。親権の話になり、夫は私が親権を有する場合のための公的補助に関する書類を一式揃えてきてくれたようだが、私はそれに目を通す事もなく、静かに立ち上がり「あなたが、巴を育てた方が、巴のためにもいいと思う。」とだけ言い残して席を立った。その言葉には、怒りや、軽蔑、後悔、諦めや、突き放すなど意味は一切なかった。穏やかに、ただそう告げて寝室へと戻り何も考える事なく、私は眠りについた―

4へ続く(2020/07/21 20:00更新予定)

©2019 絡新婦 村永青(むらなが はる)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?