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[小説連載]絡新婦 #1(期間限定 全8話+あとがき 無料公開 毎日20時連載)


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各話リンク
#1(第1話)
#2(第2話)
#3(第3話)
#4(第4話)2020/07/21(火)更新予定
#5(第5話)2020/07/22(水)更新予定
#6(第6話)2020/07/23(木)更新予定
#7(第7話)2020/07/24(金)更新予定
#8(第8話)2020/07/25(土)更新予定
#あとがき2020/07/25(土)更新予定

上臈蜘蛛/女郎蜘蛛/絡新婦

  そこには、二人居た。

 遥子には、空がどんよりと見える。そして、ぼやっとした輪郭をしているように見える。
手には湿り気と重さのある服。それをどんよりとした現実にぶら下げていく。撓る現実は、重さに耐え切れないのか声を上げる。遥子は彼女が唯一現実だと思える、英数字が無機質に並ぶ黒い板の前に戻る。そこにしか彼女の現実はない。あの物干し竿をしならせる重さのある現実は彼女にはまだない。


 彼女は、彼女自身が現実だと思える方に続くその窓から、彼女の現実の世界を眺めていた。そこには灰色のアイコンが整列していた。今、死んでいる最中の人たちだ。画面のこちら側の『現実』ではない、世界であらゆる重さをかけられている人たちだ。遥子は仕方なく、その重さに引かれる様に、椅子から浮き上がる。そして、ショルダーバックを肩にかけて、扉を開ける。結局は自分自身も、灰色のアイコンにならざるを得ないから。

  そこには、二人居た。

 七海は、窓辺に佇んでいた。これだけ、これだけ高い部屋でもどんよりとした空は晴れない。七海はぼそりと寝起きの乾ききった喉で詰まりながら声を漏らした。値段的にも、高度的にも非常に高いマンションの一室から眺める空も、やはりどこの一室とも同じくどんよりと見え雲の動きも鈍かった。カーテン越しに見る、灰色の卒塔婆のようなビルの窓にも、どんよりとした雲が張り付いてぬるぬると滑っていた。

 彼女は携帯電話を開く。友人からのメールが届いていた。彼らは頻繁に困っている。七海が現実だとおもえない画面の向こうの世界に手を出して災難を引き合いに出し、悲劇のヒロインになりたがる彼らが理解できなかった。どんなに彼らが厭な存在でもそんな彼らが群がる場所に出て行き、なんとか日々をやり繰りするしか彼女には選択肢が他になかった。気持ちと同期するような重い扉を開けることから、毎日は始まる。

  そこには、二匹居た。

 なんだ、もう朝か。遥子が目を覚ますと、朝の住人がけたたましく、外で鳴いている。彼らは毎朝、近くのゴミ集積所で朝食を嗜む。遥子はその合図と共に、重い体をパソコンの前からずるずると引きずり、洗面上へと向かった。毎朝明かりもついていない洗面台の鏡には、三十路を過ぎて目じりが少し垂れ下がり始めた女性がそこに映る。その鏡の中の女性とは目も合わせず、洗面台の向かいに置かれた洗濯機から衣類をとりだす。湿った洗濯物は生臭い洗剤の臭いを放ち、より一層気分を気だるくさせる。衣類を籠の中に放ると、より一層重たく湿った体をずるずると引きずりながらベランダへと向かう。リビングに戻ると点けっぱなしのパソコンの冷却ファンが低い音を立てていた。

  「蜘蛛・・・。」

 ベランダの物干し竿には、二匹の蜘蛛が巣を張っていた。物干し竿からぽつりぽつりと落ちる雨粒を、外に置いている雑巾でさっと拭く。物干竿を拭く度に六角形が螺旋を描いたような模様の蜘蛛の巣がふわんふわんと揺れる。蜘蛛の巣をよく見ると穴がいくつか空いていた。張り巡らされた糸にぽつんぽつんとついた細かい雨粒が、数珠を散りばめたように見えた。

 「またか―」

 巣を布団叩きで取り去り、蜘蛛と一緒にベランダのコンクリートに叩きつけた。蜘蛛たちはお互いちりぢりになって逃げてゆく。灰をばら撒いて墨で汚したような空にはいくつもの雲が鈍く波打ちながらうねっていた。天気予報では正午過ぎにはこの迷惑な雲も早々に立ち去ると告げていた。遥子は洗濯物を干し終えると再びパソコンの前へと向かった。

  そこには、二匹居た。

 携帯電話が耳元で低い音を立てながら震える。七海が重い瞼を開けると、部屋は仄かに日が差す程度で「まだ朝だろうに」と思ったが、時計を見るともうすでに昼を過ぎていた。昨日呑みに行ったせいで、二日酔いとまでは行かないが頭がずんと重い。もう昼も過ぎていることだし、朝食はなくていいだろう。窓の外を眺めると、相変わらず都心の空はどんよりと曇っていた。

 彼女は窓辺に置いている観葉植物に水をやるために洗面所に行き、小さな如雨露に水を汲んだ。洗面台に置かれた鏡は見ないことにしていた。何故なら、あの女の若い頃の写真を思い出すからだ。如雨露を持ってリビングに戻ろうとした時、モンステラの葉が汚れていたことを思い出した。一旦洗面所へと引き返し雑巾を持ってこようとしたが、洗面台の横に掛けているはずの雑巾がなかった。ふと昨晩、自宅に帰り着いて便座に嘔吐したことを思い出した。きっと洗った後に浴槽にでも掛けて干しているに違いないとバスルームに向かった。

  「蜘蛛・・・・」

 浴槽に掛けて干してある雑巾の上に蜘蛛が居た。その蜘蛛は足が長く、背には黄色と黒の縞模様があり腹が赤かった。あまり部屋では見かけない蜘蛛だった。外も冷え込み寒いので、室内に逃げ込んできたのだろうか。そっと雑巾を取って、蜘蛛はそのままにしてあげることにした。

  「害虫を食べてくれるから」

 濡らした雑巾と如雨露を持って、窓辺の観葉植物のところへ向かった。埃を被ってしまったモンステラの葉を丁寧に拭いてあげた後、他の植物たちにも水をあげた。窓から見える空を見るだけで気分が重苦しくなる。でも、今日も出て行くほかない―


 七海は頑丈な重い扉を右肩で押し開けて、少しよろめきながら部屋を出た。各階個室なので、出て直のところにあるエレベーターにそのまま乗る。もうすっかりエレベーターで下りる動作は体に染み付いている。凭れ掛かっていた鏡からふっと体を起こして鏡と向き合い「ひどい暈だな。」とぼそりと呟きながら、また体を捻って鏡へと倒れこむ。液晶画面の数字は、37から1へと点滅していく。扉が開くとともに、鏡からぽんっと体を起こしてエレベーターから出た。乳白色の大理石が敷き詰められた広々としたロビーに出ると、私は髪を掻き分けイヤホンを右耳から差し込み、左耳に差し込む。そして、自分のポストを覗き込み何も届いていないことを確認してエントランスの自動ドアを抜けた。

  肌寒いな。

 少し身震いしながらジーンズのポケットに手を入れて、マンションに備え付けの公園を歩き出す。空はどんよりとして殆ど風も無く、公園の木々も静かなものだった。しかしよく見ると僅かに木々は揺れていて、その様子は葉を毛羽立たせて身震いをしているようだった。やはりもう冬も間近か。犬の散歩をしている夫婦が前から歩いてくる。その人たちに軽く会釈する。向こうも会釈し返す。歩きながら今朝の電話での会話をもう一度、頭の中で再生していた。
「いや、私も忙しいから。うん。無理なのよ。」
「忙しいのはわかってるけれど、こういう話ぐらいきちんと電話じゃなくて直に話せないわけ。」
「だから、大事な話だから、すぐ知らせようと思って今話してるんじゃない。それにあなたの生活に何一つ支障はありません。」
「支障って・・・。あなたは家電量販店の店員か何か?どっちが母親。」
「だから・・・もう…わかったわ。また今度かけるから。私、もう仕事に出ないといけないし、んじゃ―」
 電話を切る前に、口座には生活費を入金しておいたからだとか、そういう内容の話が聞こえた気がしたが、その部分は私の中を右から左へただ通過しただけで覚えていない。いや、覚えておく必要もないことだろうと思った。そんな事よりも、もっと重要なことなんていつも他にあるのに―

 公園を抜けて直ぐの横断歩道で立ち止まる。歩道の向かいで信号待ちをしている自転車の青年は俯きながらポータブルプレーヤーのリモコンを弄っている。いや、どうやら携帯電話で音楽を聴いているようだ。バックの中から携帯電話を取り出して操作している。「自転車に乗りながらの視聴は交通ルール違反で罰金ですよ。」と、かすれ声で呟いてみる。すると向こうは顔を上げて、こちらに「あんたはどうなんだ。」と聞いてくるので、「自転車に乗ってないでしょ。それに私のこれは音楽流れてないわよ、ほら―」と片方を外してブラブラと揺らして見せた。そんな会話を妄想の中だけで済ませる。

 信号が青になる。

 またゆっくりと歩き出す。やはり首元が寒いなと、髪をストールに挟み込むように入れる。するとさっきの自転車の青年が横切る風で入れた髪がふわっと舞い上がって元に戻ってしまう。少しだけいらっとして「さっきの、腹いせにか。」と呟く。もうすぐ冬なのに肩よりも短く切るのではなかったと、少しだけ後悔してストールに髪を入れなおす。横断歩道を渡り終えた先にある小さな公園には、まだ昼間だというのに携帯電話を片手にベンチに座っているサラリーマンがいた。あの人は毎日この時間にあの場所にいる。きっと失業中なのだろう。さぞ、この寒さが身にしみるだろうなと思いながら、公園を通り過ぎ橋へと向かう。橋へと向かう途中、その顔色を一向に変えない空を少し眺める。相変わらず空は曇っていて、風も僅かにしか吹いていない。歩道に街路樹のイチョウの葉が散っていた。きっと誰かが掃除してしまったのだろう。そう思える程、路上には疎らにしか葉は散っていなかった。折角の季節を感じられるものもこの町からは排除されるんだなと少しだけ哀しくなった。
 俯いて歩きながら、先ほどのサラリーマンの事を思い浮かべる。あの人は毎日あのベンチに座って携帯電話を眺めている。きっと仕事を探しているか、もしくは延々と何かのメールを感傷に浸りながら見ているのだろうかと勝手に妄想する。いや、もしかすると職場内での不倫か何かが原因で、仕事を失ったのかもしれないと妄想をさらに飛躍させてみる。もしそうならばとても同情するに値しないなと、私の勝手な妄想で彼を軽蔑した。

 今朝もニュースキャスターが言っていたが、世の中は「世界同時不況」の真っ最中らしい。どこも大変そうだ。でも、私が住んでいるところから眺めているこの世界がそうだと言われても実感が湧かない。例えあのサラリーマンが仕事を失って、毎日ハローワークに行った帰りに公園にいると本人の口から聞いたとしても。それは私が社会に関心がないのでも、はたまた人の事に無関心なのでもない。ただ実感が湧かない。その一言に尽きる。そんなことを考えていると、もう目の前には橋があった。

 無風だった街中に比べて、橋の上は飛び切り風が強かった。橋を渡り始めると、今度は突風でストールから髪が乱暴に取り出され、風で首や肩に打ち付けられた。ジーンズのポケットから片手をだして髪をおさえるが、視界を確保するのがやっとで、手で押さえきれない髪はまだ乱暴に首や肩に打ち付けられ続けている。社会の荒波というのもこんな感じなのだろうか。強い風を受け乱れる髪で、さっきの自転車の青年を思い出す。
 何故危険だと分かっているのに、あんなものを聞きながら自転車を運転できるのだろう。あんな奴には携帯電話を持たせない方がいい。見つけた時点で即没収とまではいかずとも、もっと取締りを強化した方がいいと思う。大体、自転車に乗っていて音が聞こえないのはもちろん危ないけれど、そんな事よりも風の音だったり、木々が揺れる音だったり、人の声だったり、そんな町に溢れる素晴らしい音には興味がないのだろうか。あ、でも自分も耳にイヤホンをつけているがこれは別だ。これは、よく町を歩いているとぶらぶらとだらしなく腕と下心を揺らしながら近づいてくるオスに対する「あんたの声は聞きたくない」という意思表示だ。度々声をかけられるうちに聞こえないフリをするために見につけた手段だ。橋の真ん中辺りまで来ると、さらにより一層風が強くなった。風の音を聞くためにイヤホンを外す。風がびゅうびゅうと心地よい音を立てて耳の中を木霊する。音があまりにも大きく次第に耳が痛くなってきたので、再びイヤホンをはめなおした。それでも風の音はしっかりと聞こえていた。

 橋を渡り終えると、女子高校生が携帯電話を片手で操作しながら自転車でこちらへ向かってきた。メールを打っているのだろう、とてもフラフラしていて周りの人も迷惑そうだった。私の前方にはおばあさんが歩いていたので、少し心配になり歩調を速めておばあさんの後ろを歩いた。案の定、女子高生は突風でより一層ふらつきながらおばあさんの方へと向かって来た。私は、おばあさんの肩に右手を伸ばして自転車に当たらないように少し手すり側に引き寄せるとおばあさんは少し驚いた様子で振り返り、しゃがれた声で「ありがとう」と私に会釈してくれた。私は、目は合わせなかったが会釈し返して、何も言わずにおばあさんを追い越した。
 他人に迷惑をかけるぐらいだったら携帯電話なんか使わない方がいい。私は振り向いて、女子高生の後ろ姿を睨みつけると、手前のおばあさんがまだこちらを向いていて少し怪訝そうな顔をした。勘違いですよ、おばあさん。

 似たような街道が続く中、駅へと向かった。この街道はまだ清掃されていないようで、イチョウの葉が少し道端に散っていた。此処はビル風が強いものの、なんとか葉は歩道に残されていて、歩道が黄色く彩られている様子がとても綺麗だった。さっきの女子高生の運転を思い出しながら、あんな人間に携帯電話を持たせるとあれだけ危ないものなのだと、再び携帯電話に関して考えが巡り始めた。
 携帯電話を有効活用するのであれば、あんな危険な使い方をしてしまう人たちに持たせるよりも、あのベンチのサラリーマンのような本当に困っている人たちに無償で渡して、逐一仕事が見つかるようなシステムに役立てればよいのに。それがもっと有効的な使い方というものだろう。
 その私の考えに対して「それに対する経費は税金から捻出するため非常に難しい」と妄想の中のテレビに映った政治家が言う。私はそれに対し「そういうことになら、是非使っていただいて結構ですよ」と答える。すると政治家は「さきほど、不景気に実感がないとのことでしたが、本当にこの財政の逼迫した状況を理解されているのでしょうか?いますべきことは―」となにやら話続けているようだが、そこで聞くのに疲れて妄想の中のテレビを消す。社会に関心はあるっていったでしょう、と真っ暗な画面に向かって呟く。

 昼間の駅には、沢山のタクシーが退屈そうに並んでいた。その運転手たちも退屈そうだったが、目だけは時折忙しそうにぎょろぎょろと動いていた。駅の広場の植え込みのところには沢山のホームレスも居る。彼らは日に日に増える一方だ。ホームレスたちの様子といえば、体育座りをしてブツブツと何やら呟くものもいれば、自転車を停めてシートを敷いて横になっているものもいて様々だ。これも不景気の影響だろうなと、少しだけ実感が湧いたが、その実感は一瞬姿を見せただけで、直ぐに私の目の前を通り過ぎていった。
 駅の入り口からそのまま向かいの改札へ行き、運賃を改札ゲートに備え付けられた電子マネーの支払い用のパネルに携帯電話を翳して通った。3番ホームに向かうための架橋を歩きながら「やはりこういうときに携帯電話は便利かもしれない」と頷く。下る最中にすれ違うサラリーマンの顔はどれも照明が暗いためか、それとも世の中が暗いためか、どの顔も灰色がかっており、見ているだけで「冬だな」と感じた。この表情は冬の風物詩なのだろうか、それとも不景気の風物詩なのだろうか。

 電車が来るまで数分余裕があったので、構内の売店へと向かう。売店には、特に目新しいものがなかったので、キシリトール入りのガムを一つ手に取ろうとしたそのとき、ふと求人誌が目に留まった。どの求人誌も極端に薄く、これも不景気さを物語っているなと眺めていた。すると、ガムを持ったまま立ち尽くしていたためか、売り子のおばさんが物凄く不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。私はガムを素早く渡し、手短に会計を済ませた。
 何もあんなに不機嫌な顔をしなくても。どうせただ会計をするだけの仕事だろうに。改札同様、自動化してしまえばいいのに。でも全てを自動化したところで、それで幾ら景気が良くなったとしても、きっと今にも増して酷く閑散とした風景だろうな。想像するだけでぞっとする。やはり、不機嫌なおばさんでもいたほうがいい。それに不機嫌だからこそ会計を早く済ませようと思えるし、時間的に考えれば自動化するよりも会計の速度は速いのかもしれない。そうこう考えているうちに、ホームには列車が入ってきていて、綺麗に整列した人々は順番に列車の中に乗車し始めていた―

2へ続く

©2019 絡新婦 村永青(むらなが はる)

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