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ポプテピピックから読む新しい時代の予感

最近、「償い」(原作:矢口敦子)を読み、またアニメ「ポプテピピック」(原作:大川ぶくぶ)を見たので、筆者の偏見に基づく暴論を語ってみたい。

いつの時代も子供というのは親に依存するしかない弱い存在だ。アニメやドラマ、そして現実にいる大人は馬鹿の一つ覚えのように「勉強しろ」「悪いことはするな」と言うが、理由もろくに説明しない命令に従う道理などありはしない。万人に共通する答えがない問いに回答するのはとても難しいが、それは大人がちゃんとしてやらなければならないのだ。退屈な一般論を振りかざす必要はない。体験したことのない子供に、楽しかったことや苦しかった実体験を伝えればいいだけだ。

冒頭のクソ命令は大人の責務として間違ってはいないが、子供の立場からすれば漠然としていて腑に落ちない。何かをやろうとすれば大人は「あれはダメ、これもダメ」と悪いことではないにも関わらず、自身の矛盾を棚に上げて何かにつけて口を挟む。このように、子供が見られる世界が制限されることによって小さな人間になりやすくなる。とても従順で都合の良い子供に育つだろうが、抑圧された環境に閉じ込められると心のどこかに歪みが生じる。否定され続ければストレスは鬱積し、いずれ意思の表明、感情というものが欠落していく。真顔で凶行に走る少年(及び、それを模した漫画のサイコパスキャラ)というのは、このようにして生み出されているのではないか、と筆者は推察する。

ところで、ポプテピピックのメインキャラ2人について、視線がどこを向いているのかよく分からない不気味さと、繰り広げられる狂気の沙汰はそれに通じるところがある。自分の世界を狭めるように抑圧してきた大人や社会、ルールが生みだした”副産物”が思いっきり唾を吐きかけているように見えるのが痛快で、それが今の時代の視聴者層に受け入れられたのかもしれない。抑圧してきた側の大人が見ればその意味不明さについていけず、顔をしかめて「こんなものを見ていてはダメだよ」とお決まりのようなクソ台詞が飛び出すに違いない。そのようなリアクションが、分かる者を「ざまぁみろ」と心の底から喜ばせてくれるのである。

少年による凶悪犯罪が生み出される原因についてメディアは「漫画やゲームの暴力的表現に影響された。表現規制すべき」などと根拠もなく主張しているのをよく見る。これがもし、新聞に載っている小説やそれがテレビドラマ化された映像に感化されて殺人事件が起こった場合、メディアは「自社の新聞小説やテレビドラマに影響された。規制します」などと悪びれることもなく、関係性を切り離して報道するだろう。それほど無関係なものを結びつけて言っているわけなのだが、メディアにはその自覚というものがまるでないらしい。

そうなると、漫画・ゲーム業界がどんな風評被害を受けようが端から関心がなく、表現規制の延長線上にあるネットまでをも含んだ情報統制・言論弾圧へのとっかかりにするのが目的であると疑わずにはいられない。「漫画やゲームの規制」という分かりやすい特大のキャロットを目の前にぶら下げれば、大人は”かくあれかし”とその餌に嬉々として食らいつくだろう。メディアとしては、音楽であれ映画であれ舞台芸術であれ、社会が同調する材料であれば何でも良かったわけだ。

追記(2020.05.20.):本NOTEをアップしたのは2018年だったが、まさか2020年4月になって公権力がゲーム規制条例を作るとは思ってもみなかった。規制へのとっかかり理由を殺人や暴力表現にするのではなく、依存性にしたのがとてもいやらしい。当然のようにメディアが便乗して「8割賛成」だと煽ったことは残念に思うのと同時に、余りに予想通り過ぎて失笑した。

イチから分かる 香川県ゲーム規制条例を解説 「賛成8割」に飛びついたメディアの“反撃”に注視

さて、大きな社会から小さな社会にレベルを下げて考えてみよう。例えば、学校内において円滑に物事を押し進めるという目的で決められた「校則」という意味不明なルールを押付けると、必然的にそれを破る者が現れる。主たる原因を作っているのは学校自体であるにも関わらず、反発者を反社会的存在だとか、異物としてぞんざいに扱うのは何とも滑稽なことだ。そうなるのも、学校社会においてはルールを課している大人が正義であり、反発者が悪だからである。

つまり、ルールを押し付ける側は自分を利するルールを作りたい放題であり、かつその社会における正義にもなれるわけだ。先ほど述べた表現規制について、公務員でもないメディアが牛耳るようになると、何もかもメディアの都合の良いように善悪を決められるようになる。それは、漫画やゲーム業界のみならずあらゆる業界が「メディア側が気に食わないから」という理由でいつでも潰されることを意味する。

このようなメディアによる独裁社会が現実化するまでに、新たな情報源であるネットが普及したのは不幸中の幸いだったと言えよう。今まではメディアが一方的に垂れ流す情報を鵜呑みにするしかなかったが、現在ではメディアとネットの2つの情報を見比べてその真偽を判断できるようになったからだ。そして、情報伝達速度、情報量、情報の双方向性という見地からすればネットは圧勝しており、あと数十年もすれば(互いの力関係は逆転して)ネットをメインに使う世代が全人口の大半を占めるようになる。今、メディアが表現規制を声高に叫んでいる本当の狙いは、自分にとって都合の悪い情報を暴露し、また自身の存在意義をも脅かしているネットの影響力を、法という社会のルールによって抑圧・排斥することにあるのかもしれない。

しかし、人々がメディアからネットに情報を求めるというパラダイムシフトはもう止まらない。この状況を指を咥えて見ているわけにはいかないメディアが始めたことと言えば「公平性のある報道?知ったことか」「真実?何それ美味しいの?」と思わせるやりたい放題の報道バラエティやネットコンテンツの流用である。これらの事実は近い将来、メディアが過去の遺物となる蓋然性をより一層高めている(が、ネット情報を補完するため、臨時ニュースや災害時などの緊急速報を発信するカナリア程度には電波を残していてもらわねば困る)。

そして、これからはメディアに変わってネットで個人個人が自身の価値感を具現化させた作品や思想などを発信して、同調する人を取り囲んでいくようになると予想される。メディア依存から解放された人々は、自分の欲しい情報を広大なネットの海で漁る超多様性時代の到来に向けて心の準備をしておくべきなのかもしれない。・・・知らんけど( ˘ω˘ )

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