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本当に「私」はここに存在しているのか。

自分という存在が、本当に「存在」しているのか。それを証明する術は無いのだと思う。自分を認識しているのは、自分だけだから。仮にどこかのSFのように、他人と自分の中身が入れ変わったとしても、きっと信じてもらえないだろうし。

自分の存在を認められるのは、自分だけ。だからこそ、自分の存在価値を他人から承認されることに求めるのはお門違い。例えば、目の前で人に泣かれたところで、慰めてほしいという言外のメッセージを感じて、私には慰めたい、という気持ちが全く湧かないのだ。

とはいえ、自分が「ここ」にいる、という感覚を私は意識しなければ、感じることが難しい。むしろ、自分がここに居ない感覚を覚えてしまう。現実というドラマなのか、映画なのか、をただの視聴者として見ている感じで、会話をするだとか、何かしら他人との接点が無い限り、そこに自分はいない。

「自分」とは何なのか。本当に存在をしているのか。今自分が見ているこの現実は、虚像ではないのか。誰か赤の他人の夢ではないのか。子供の頃から、そんなことばかりを考えていた。自分とは唯一無二だ、とみんなそういうけれど、「自分」という思考が違う、と言っているだけで、そもそも「思考」を取り出して並べて比較することなんて出来ないのだから、本当に別物、唯一無二だと言えるのか。

唯一無二なのは、ただ「唯一無二でありたい」と願うことだけが、人というか、それぞれの意識の共通項だった、というだけなのではないか、とも思うのだ。

自分という身体が生きている、呼吸をしている、という意味ではなくて、この世界に自分という存在がある、という実感。

その意識のさらに上に位置するのが、きっとこの世界に自分がいるのではなくて、この自分がいる場所こそが世界だ、という意識なのだと思う。自分の存在価値や存在意義を考えずとも、自分の思考そのものが世界だとしたら。私が今こうして独り言を書いている私に見えている世界と、名前も顔も知らない、この独り言を読んでいる誰かが見ている世界は、全くの別物であるということだ。

ここで言う世界とは、すなわち目に見えている現実を指すわけで。目に映っている現実をどう理解しているか、それを本当の意味で他人と比較することは不可能。なぜって、言葉で説明をしようにも、その言葉ひとつひとつにどんな定義をしているかのすり合わせが必要になるし、相手を100%理解するなんて、それもまた確証のない話だから。

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