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不足感の正体はつまるところ、あなたが暇だということだ

満たされない。心にぽかりと穴が空いているような…なんてありふれた表現が似合うくらいの不足感。自分が何を求めているのか、何を欲しているのか、わからないけれど、無気力に近い空虚な感覚が。ある。

他人を羨む感情は、もうとうに抜け落ちていて、自分と他人とを比べて「これ」が足りない、「あれ」を満たしたいなんて思わないけれど、心が満たされないのは、やはり他人のもつ何かを羨んでいるからなのだろうか。それとも自分には、どうしようも埋められない大きな穴でも空いていて、穴が空いている自分を受け入れられないだけなのだろうか。

満たされない自分を満たしたいという欲求。完全体になりたいという願いが、果たして叶うことはあるのだろうか。

不足感と孤独感は似ているし、他人と繋がることで不足感が解消されることがある、ということも知っている。他人と会話をしているときには不足感を感じないからだ。そう思うと、不足感を感じるときは、いたって暇なときなわけで、時間が在りすぎるが故の言葉遊びのようなものなのかもしれない。ただ、不足感について、をあれこれと思考を巡らせて時間を潰していたのかもしれない。

満たされない感覚とは、つまるところ「暇」である証拠。時間を持て余しているからこそ不足感を覚えるのだ。そして、暇だから思考をする。思考をするから余計に迷う。……むしろ、答えの無い問を延々と考え続けることに、答えを出さないことに意義を見出しているとさえ見える。

答えを探しながらもその一方では答えを求めていない。その延々と飽きることなく続くその思考の移り変わりを、楽しんでいる。楽しむ、という言葉を使ほど、面白い作業ではないけれど、片手間にするパズルのように、暇つぶしにはなるのだから、それで良い。時間が満たされていない。充実していないからこそ、思考に逃げる。思考で時間を充実させるために、答えの無い問を追いかける。

そして、無意味な思考活動に時間を割いている間も、生命は死に向かって確実に歩いている。人はみな、充実していない状況よりも充実している状況を好むと口では言うけれど、毎日を充実させられている、といえるのはどのくらいの割合なのだろう。やりたくもないことに時間を割いては、不満を口にする。不満を言うくらいならば、その環境から離れたらよいのに、と思うけれど、固執し続ける人たち。これもまた、無意味な思考による暇つぶしと同じで、やりたくないことをやって時間が無意味に過ぎているのを待っている。

満たされない、その不足感は自分が暇な証拠でしかない。ただ、暇であることは悪いことではない。暇であることは、言い換えれば自分のために時間を使える、ということだから。けれど、時間があるのに自分の好きに出来ない拘束された時間を生み出すことだけは、惜しい。

他人によって時間を拘束されることは、時間の充実度を下げる。充実度が下がるから不足感が生まれ、思考をするしか選択肢がないが故に、答えのない問を生み出してしまうから。答えのない問を自分に投げかけて、哲学的だなんて独りよがりに思考を深めているフリをすることほど、時間と自分を無駄遣いしているように見える。


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