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ひねくれている人の話①

私はここにいる。生きている。
当たり前のことを、そう改めて言葉にしたくなるのは、やはり心のどこかでは自分の存在を見失っているかもしれなかった。

街を歩けば、すれ違う人々。通勤中のサラリーマン。派手な髪色をした美容専門学生。パチンコ屋に向かうビーサンをパタパタと鳴らしながら歩くおじさん。みんな目が空洞だった。私にはそう見えた。

何のために生きているのか、自分がここにいる意味をはっきりと認識をしている人なんて、この世にどれだけいるのだろうか。

マンガも小説も。何かしらの創作物に表れる面々は、みな自分の役割を知っていた。そう。なぜか知っていた。他人の才能に、同じパーティの面子の才能に嫉妬をすることもなく、自分の才能に価値を認めていた。

のに。

リアルな世界では、自分の才能なんて曖昧すぎてわからない。何でもできるような気もするし、何もできない気もする。他人の成功を見ては嫉妬をして、他人の苦労を見ては安心をする。自分の役割を知りたい、と他人にもとめては、その返答を否定する。

他人の存在があってこそ、自分を認識できる。他人の存在があってこそ、自分の才能であり、弱点であり、長所であり、オリジナリティが見えてくる。
才能に大小はあれども、価値に大小はない。人間の価値は等しかった。
……否、人間と動植物の価値も等しく、同時に人間と目に見えぬものたちの価値も等しいのだったと、私は朝からぼんやりとホットコーヒーを飲みながら思うのである。

そう。本当は大したことを言っていないのに、自分を起点として地球規模な話を展開しているような、そんな自分に酔うのである。自分に酔っていて、同時に自分の価値を感じたい、一種のひねくれた承認欲求でもあった。



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