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【ゲーム哲学】「全ての人々が、あとほんの少しずつ優しくなる」には

まえがき・連載の概要

今年から新しい試みとして、ゲームのセリフやキャラクター、ストーリーなどから、現代にも通じる普遍的な要素を取り上げたコラム【ゲーム哲学】を月1回のペースで連載します。

私は幼少期からゲームに親しみながら育ちました。現在は家族と過ごす時間の比重が多くなったため、以前よりはプレイする頻度が減りましたが、ゲームはプレイ自体の楽しさもさながら、キャラクターやストーリー、世界観、音楽で情操を育んでくれる秀逸な作品が数多く存在します。
そういったゲームの話題をnoteでも書きたかったのと、現在ゲーム関係の仕事を承っているのもあり、このような形で記事をアップしていくことにしました。

この連載ではさまざまなゲーム作品を哲学的なアプローチでとらえ、あまりゲームに詳しくない方を含め、現代を生きる人が立ち止まって考えたいテーマを取り上げていきます。

ゲームのコアな語りは抑え、なるべく取っつきやすい内容を目指していきます。よろしければお付き合いください。

第1回 「全ての人々が、あとほんの少しずつ優しくなる」には

全ての人々が、あとほんの少しずつ優しくなれますように…。

これは1997年にスクウェアより発売されたシミュレーションRPG「ファイナルファンタジータクティクス」の、あるヒロインのセリフです。

祈りにも似たこのセリフは、現在の世相を浮かべながら願っても何ら不思議のないものです。

誰もが誰かによって傷つけられた経験、もしくは故意にでなくても傷つけてしまった経験があると思います。
また個人の関わり合いだけでなく、複数人やその他大勢の人々、世の中自体が優しくないという印象を抱くこともあるかもしれません。
セリフを発した彼女自身も傷ついたからこそ、このように願ったのでしょう。

できれば傷つけ合うことなく、温かい言葉をかけ労い合う。それぞれの立場を尊重できる世の中に少しでも近づけたら、それに越したことはありません。

「全ての人々が、あとほんの少しずつ優しくなる」ために、現代の私たちにできることは何なのでしょうか。

ファイナルファンタジータクティクス(FFT)について

本題に先立ち、まず今回取り上げるゲームについて説明します。あまり興味のない方は読み飛ばしても差し支えありません。

ファイナルファンタジータクティクス(以下、FFT)は中世ヨーロッパをモチーフにした世界「イヴァリース」を舞台に物語が繰り広げられます。

貴族の末弟である主人公ラムザは身分階級の格差に疑問を抱き、戦火に身を投じていくうちに裏で暗躍する組織と対峙します。やがて権力者や世界を揺るがす「聖石」をめぐる争いに巻き込まれていくのがおおよそのストーリーです。

1997年にプレイステーション用ゲームソフトとして発売後、2007年にプレイステーションポータブル用の移植版「ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争」が発売。現在iOS/Androidでもプレイ可能です。

FFTを手がけたのは「伝説のオウガバトル」や「タクティクスオウガ」を開発した松野泰己氏。それらで培ったゲームシステムにFF(ファイナルファンタジー)シリーズの要素を加え、さらに独自のゲーム性を打ち出しました。

加えて重厚なストーリーや人間模様、「松野節」と呼ばれる印象的なセリフ回しは多くのプレイヤーを惹きつけました。スマートフォン用ゲーム「FFBE幻影戦争」とのコラボを開催するなど、今もなお愛され続けている作品です。

私は同時期に発売された「ファイナルファンタジー7」よりもFFTの世界観に強く惹かれ、何年にも渡って繰り返しプレイしました。エンディングを迎えた際は結末に納得がいかず、布団の中でひっそり涙したものです。

今回取り上げたセリフも、リアルタイムでプレイしていた思春期の頃から印象深いテーマで、自分なりの答えを考え続けてきたため初回に取り上げました。

全ての人々には無理だけど

冒頭のセリフについて結論から言うと、まず「全ての人々には無理」です

全ての人が良識ある人間とは限りません。そうでなくとも、話題自体に興味がなければ、できる心がけもできません。正直なところ、環境問題への取り組みに似ているテーマです。

その分、少しでも心が動いた人がどうすればいいのだろうと考え、今までより優しくあろうと努められたら、その周辺の世界だけでも変わるのではないかと私は考えます。

王女の祈りが意味する「優しさ」とは

では、セリフが意味する「優しさ」とは、どのようなものでしょう。

このセリフを発した王女オヴェリアは、戦争の渦中、権力者たちに利用され己の運命を弄ばれます。さらわれたり政治の道具として扱われたりと、王女どころか人間としての穏やかな生活、尊厳すら奪われます。

彼女は自身の立場を憂い、もっと一人ひとりが人として尊重される世の中を願ったのではないでしょうか。

己の私利私欲のために他人を陥れる人間は現代にもいます。そこまではいかなくても、他人を顧みない人間だっていくらでもいるでしょう。

普段から気をつけていたとしても、調子が悪かったり何らかの要因でイライラがつのり、身近な人を尊重できない時もあります。

「自分がされて嫌なことは人にしない」と教わった方も多いと思います。相手の立場になって考え、嫌がりそうなこと、傷つける言葉をなるべく避ける。
苦手・嫌いな相手に対してそれが難しいのであれば、距離を置く。

そういった相手への思いやりを少しでも持つことが、セリフの意味する優しさのひとつといえます。

また、彼女は敬虔な信教者でもあります。自分だけでなく、思いのままに生きられない人間がこれ以上増えないよう願ったのでしょう。

誰もが心身ともに健やかに、のびのびと穏やかに過ごせる世界になれば、それ以上のものはありません。しかし現実には理想論だと一蹴されるでしょう。
ゲーム中にも「家畜に神はいないッ!」という、平民の一切の尊厳を許さない対極となるセリフがあります。

オヴェリアも、絵に描いたような理想の世界になるとは思っていないはずです。「あとほんの少しずつ」の一節がそれを物語っています。

特別なことでなくてもいい。ひとりでも意識することで、「ほんの少しずつ」は叶う

繰り返しになりますが、全ての人が深い想像力を持って相手を思いやるのは不可能です。
想像力には個人差があり、たとえ近しい人でも自分とは別の人間。相手の心境を正確に汲み取ることはできません。

ですが、ひとりでも身近な相手の立場や心境を慮るよう意識すれば、彼女が願う「ほんの少しずつ」は叶います。

人はたいてい、自分のことで手一杯です。自分さえよければいいとまではいかなくても、他人のことまで考える余裕などない人もいるでしょう。

けれどおそらく誰もが、誰かからの優しさで生きている。生かされている。

誰かに優しくされると心にゆとりが生まれ、別の誰かを思いやる余裕が生まれます。思いやりの心が連鎖していくことで、たとえ小規模だとしても優しさは広がっていくのです

私たちの身の回りでも、そういった思いで成り立っている地域社会が数多くあります。
医療、サービス、教育、福祉、ボランティア…誰かのためにと働いている人もまた、大勢います。私も育児で支援を受けている人間のひとりです。

そういった職業でなくても、できることはたくさんあります。

悩みをきく。大丈夫だよと声をかける。マッサージをする。抱きしめる。応援する。自分をいたわる。etc……。

特別なことでなくてもいいのです。他の誰かはもちろん、自分に対しても、心や身体を楽にしてあげるだけで、そこにはちゃんと「優しさ」が生まれるのです。

全ての人には無理でも、人々があとほんの少しずつ意識して、優しくなることはできるはずです。

自分だけでなく誰かの幸せを一心に願う、王女オヴェリアの祈りは、余裕がなくなりがちな私たちに、自分や誰かをいたわる心を思い起こさせてくれるのかもしれません。


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