法音院大會

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十回 春眠の底に刃物を逆立てる-桂信子『新緑』

春眠とは物質ではない。どちらかといえば場所のようなものだ その底辺に「刃物を逆立てる」。 突き刺すのかもしれない。 まるで大きな生物の背中に刺すように。 春眠は深いからこそ、気持ちが良いからこそ、恐ろしい。 恐ろしい春眠から逃れるために夢の中で「刃物を逆立てる」のだ。 次回も良ければ読んでください。

    • 偏質的俳句鑑賞-第三百四十九回 着ぶくれてもうババアだかジジイだか-笠原真枝『俳句 2024年5月号』

      冬の句だが今月号なので紹介する。 着ぶくれると人の顔が見えなくなるし、体格もわかりにくくなる。 だが、老いていることはわかる。  「ジジイ」とか「ババア」とかの言い方は悪く聞こえるが、この句の中では「わからねぇやガハハ」という感じで蔑んでいる感じがない。ただただ、滑稽さに振っているからこそ成り立っている。 次回も良ければ読んでください。

      • 偏質的俳句鑑賞-第三百四十八回 太陽を必ず畫く子山笑う-高田風人子『ホトトギス同人句集』

        幼稚園とか小学校の絵にはオレンジ色、赤色の太陽がほとんど描いてある気がする。 「太陽を必ず畫く子」とはどういう子供だろうか。自分の子供だろうか。 その子が絵を描いているのを見ていたときの発見なのかもしれない。 「山笑う」という季語のはつらつとしたイメージ、芽吹くイメージも組み合わさってとても元気で良い。  次回も良ければ読んでください。

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百四十七回 一遍の素足に触れた菫草-谷さやん『谷さやん句集』

          普通に考えれば多分そんな菫はない。 しかし、時空を捻じ曲げてただの「菫」に物語を付与できるのが詩だ。 一遍といえば時宗で踊り念仏という教科書的な話がある。 便覧に乗っていた僧はみな裸足で踊っていた。 その一遍上人の裸足の踊り念仏のイメージと菫という地にこじんまりと咲く花の掛け合わせが心地よい。 次回も良ければ読んでください。

        偏質的俳句鑑賞-第三百五十回 春眠の底に刃物を逆立てる-桂信子『新緑』

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百四十九回 着ぶくれてもうババアだかジジイだか-笠原真枝『俳句 2024年5月号』

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百四十八回 太陽を必ず畫く子山笑う-高田風人子『ホトトギス同人句集』

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百四十七回 一遍の素足に触れた菫草-谷さやん『谷さやん句集』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十六回 芽吹く木の騒騒と一山をなす-宇多喜代子『森へ』

          「騒騒」という字面がもうすでにごちゃごちゃっとしていて素晴らしい。 確かに「山」も木がたくさん生えていることによってこんもりとした緑の山になる。 それぞれの木が「芽吹く」イメージは赤ちゃんの産声やトトロのどんぐりが芽吹く「ポコ」というかわいらしい音を想起させる。 どちらもいっぺんに鳴ったら「騒騒」とするだろう。 また、その音が耳障りではなく自然の力を感じさせる存在として捉えられているところが重要だろう。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十六回 芽吹く木の騒騒と一山をなす-宇多喜代子『森へ』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十五回 時計屋の時計春の夜どれがほんと-久保田万太郎『久保田万太郎 久米三汀 互選句集』

          「春の夜」とは時間の流れが歪められたようにゆっくりだったり、春眠として一瞬で過ぎるときもある。 そうして「時計屋」のたくさんある時計はすべてが違う時を指す。 「どれがほんと」か分からない不思議で魅力的な世界に連れ込まれる。 この「時計屋」はジブリとかの世界にある魔法のかかった時計でも売っていそうだ。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十五回 時計屋の時計春の夜どれがほんと-久保田万太郎『久保田万太郎 久米三汀 互選句集』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十四回 水の地球すこしはなれて春の月-正木ゆう子『静かな水』

          確かに「水の地球」という概念はよく提示される。 しかし、それを宇宙空間的に捉えるのは非凡だ。 まるで宇宙ステーションから見るように「すこしはなれて」いる星を見るということで「春の月」という季語に新しい捉え方、イメージを付与したということが興味深い。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十四回 水の地球すこしはなれて春の月-正木ゆう子『静かな水』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十三回 借りてきし猫なり戀(こい)も付いて来し-中原道夫『銀化』

          「借りてきた猫」という言葉がある。 それに「戀」がくっついて来る、とはどういうことだろうか。 二匹いるということだろうか。それとも、野良と恋をしていたのだろうか。 慣用句の話に戻ろう。「借りてきた猫」とは普段とは違っておとなしいことだが、その中で恋をしているとはなかなか面白い。 そして、慣用句をそのままの語として使うという変則的な方法は興味深い。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十三回 借りてきし猫なり戀(こい)も付いて来し-中原道夫『銀化』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十二回 幸福を売る宣伝の赤風船-河野青華『くりかえし読みたい名俳句一〇〇〇』

          生易しく「幸福を売る」とか言うのは怪しい。しかし、詩としてそういう言葉を使うときは逆説的な意味を持つ。 そればっか言っている気がするけどそういうのが好きなのだ。自分は。そういう逆説的な詩が。 固定化された「幸福」なんてないからこそこの句は成り立つ。だからこそ「売る」ように見せかけたり「宣伝」するフリをすることができる。 そういう曖昧な「幸福」という物事を買おうとする人々、簡単に得ようとする人々への皮肉が込められている。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十二回 幸福を売る宣伝の赤風船-河野青華『くりかえし読みたい名俳句一〇〇〇』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十一回 しわしわともんでひろげて春の海-はらてふ古『まいにちの季語』

          まるで和紙のように春の海を捉えている。 夏の海でも冬の海でもだめなのだ。「春の海」という季語の持つやわらかいイメージがなければ。 神の視点から「春の海」を変幻自在にもんだり、ひろげたりできる。 それこそ詩の真髄というべきものだろう。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十一回 しわしわともんでひろげて春の海-はらてふ古『まいにちの季語』

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十回 人体のどこも痛点花吹雪-富澤秀雄『東西心景』

          花吹雪の季節だ。風が吹くと全身に桜の花が当たる感覚がする。 それは「人体のどこも痛点」だからであり、理論的には当然人体の身体は神経が張り巡らされていて、という話になってしまう。 しかし、どうして我々はその花吹雪を心地よく浴びることができるのだろうかと詩的な考えが出てくる。 詩的な身体の不思議というものを改めて提示してくれるのが「花吹雪」なのではないだろうか。

          偏質的俳句鑑賞-第三百四十回 人体のどこも痛点花吹雪-富澤秀雄『東西心景』

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十九回 ぶらんこの影を失ふ高さまで-藺草慶子『野の琴』

          「ぶらんこ」は春の季語として捉えられる。 やはり、あったかくなって外で遊ぶときにかなり気持ちが良いものだ。 当然、ぶらんこをしていて「影を失ふ」ことはない。 しかし、詩の中ではなりうるのだ。「影を失ふ」とどうなるのだろうか。 そういう恐ろしさも含んでいて面白い。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十九回 ぶらんこの影を失ふ高さまで-藺草慶子『野の琴』

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十八回 桜ごし赤屋根ごしに屍室の扉-西東三鬼『西東三鬼全句集』

          「屍室」とはなかなか強烈なインパクトがある。 桜ごしに見えるのは生と死の対比になっていると考えられる。しかし、「赤屋根」とは何だろうか。 血のようななにか雰囲気的に不穏なイメージを与える。それを「桜」という季語と並列したのはかなり面白い。 曖昧なイメージで詩を構成するのも場合によっては良い。

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十八回 桜ごし赤屋根ごしに屍室の扉-西東三鬼『西東三鬼全句集』

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十七回 世の中を〇と✕とに分けおぼろ-朝日泥湖『俳句いまむかしみたび』

          「おぼろ」の中は何もかも曖昧だ。 しかし、世の中を〇と✕に分けようとする傾向がある。特に善と悪に。 時にはあえて曖昧にいることも重要なのではないだろうか。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十七回 世の中を〇と✕とに分けおぼろ-朝日泥湖『俳句いまむかしみたび』

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十六回 春の海かく蒼ければ殉教す-岩岡中正『現代俳句一〇〇人二〇句』

          遠藤周作の「沈黙」のようなキリスト教の殉教のイメージがある。 海がなかなか印象深く映画では書かれていた気がする。 海に対して殉教するということはそうさせてしまうような深さを持っている。その深さは「蒼」に起因する。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十六回 春の海かく蒼ければ殉教す-岩岡中正『現代俳句一〇〇人二〇句』

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十五回 春の月噴水は水脱ぎにけり-鳥居真理子『ねんてんさんの名句百選』

          噴水は夏の季語だが「春の月」が最初に置かれているから、この「噴水」は春の月の下輝いている一つの景物としてある。 「水を脱ぎ」とは噴水が止まり、持続的に出ていた水のベールが脱げたように見えるのだろう。 擬人化は失敗しやすい。しかし、丁寧であれば失敗しないということをこういう句が証明してくれる。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百三十五回 春の月噴水は水脱ぎにけり-鳥居真理子『ねんてんさんの名句百選』