法音院大會

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記事一覧

偏質的俳句鑑賞-第三百六十三回 母の日が母の日傘の中にある-有馬朗人『俳句いまむかしふたたび』

あと3日で母の日だ。 作者は「母の日傘」という思い出の象徴としてのもの中に面影を見ている。 ものだけで母への感情がありありと伝わって来るのが素晴らしい。 それこそ…

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20分前

偏質的俳句鑑賞-第三百六十二回 こどもの日ひとりぼっちのアジア象-杉ひめか『まいにちの季語』

アジア象は基本的にどこの動物園でも人気だと思う。しかし、一人で飼われていることもあるかもしれない。 子供たちは楽しんでくれているかもしれないが、「ひとりぼっち」…

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偏質的俳句鑑賞-第三百六十一回 東風(こち)吹きてサークル棟の窓きしむ-音羽紅子『俳句 2024年5月号』

なんかサークル棟って古い気がするどこの学校も。 そのあるあるが「東風」という新入生などの入ってくる季節を思わせる季語と噛み合ってサークルのガヤガヤした感じを思わ…

偏質的俳句鑑賞-第三百六十回 死の川の両岸現世鯉幟-沢木欣一『今日の俳句』

環境汚染が酷かったときの光景だろうか。 それとも、「三途の川」を思って詠んだのだろうか。 自分は前者だと思う。しかし、後者の解釈のほうが普遍的で更に詩的かもしれな…

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十九回 送ります手紙の中は初夏の風-竹津亜希『夏の名句と季語』

手紙なんて久しく書いていない。しかし、わざわざ手紙を書いて送るという行為はどの時代も気持ちを伝える手段としてはかなり高度だと思う。 手紙には本文を書いた紙以外は…

偏質的俳句鑑賞-第三百五十八回 後ろから春一番の羽交締め-岩淵喜代子『俳句 2024年5月号』

もう夏に近いけれども紹介したい。 「春一番」が後ろから来て、覆われる。それを「羽交い締め」と表現したところが面白い。 風は人を掴むことはない。しかし、春一番という…

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十七回 春風や寝癖ゆたかに私の子-小林鮎美『俳句 2024年5月号』

「寝癖」がついているのも「私の子」というくくりの中ではかわいらしいポイントでしかない。 俳句ではよく「吾子」という言葉が使われる。しかし、「私の子」という着地は…

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十六回 ゴールデンウィークジャングルジムに十連休-荷見杉雪『まいにちの季語』

今、公園とかのジャングルジムはどんな感じだろうか。 まだ、人気だろうか。めちゃめちゃ子供がたかっていた記憶がある。自分もたかっていた。 のんびりとした公園の雰囲気…

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十五回 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう-折笠美秋

折笠美秋はALSを発症し、その病床において眼球の動作によるコミュニケーションにおいて詠んだ句がこれだ。 これは妻に宛てた作品だと言われている。 「蝶に乗」るという現…

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十四回 紙の桜黒人悲歌は地に沈む-西東三鬼『西東三鬼全句集』

「紙の桜」とは多分、劇で上から降ってくる小道具だろう。 だから実質季語ではない。 「黒人悲歌」といえばブルースなどがある。それが「地に沈む」ような声の深さと歴史的…

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偏質的俳句鑑賞-第三百五十三回 尋常の死も命がけ春疾風-正木ゆう子『読む力』

「尋常の死」は多分老衰とかの死で、闘病とかの末というわけではなさそうだ。 しかし、人間はいずれ全員亡くなる。その「死」という行為はどれも命がけの行為でそこに優劣…

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10日前
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偏質的俳句鑑賞-第三百五十二回 夜桜の深みに入りて行方知れず-齋藤愼爾『齋藤愼爾句集』

夜桜は妖しいオーラをまとって立っている。 そのオーラは周りの空気も巻き込んで「深み」になる。それに近づいていってしまえばどこか現実ではないところへ誘われてしまう…

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11日前

偏質的俳句鑑賞-第三百五十一回 どらとらのらみけや猫の恋バトル-太田正己『俳句いまむかしふたたび』

リズムというか言葉の羅列の面白さを核に置いたいい作品だ。 あと、人間から見たら生存競争の本能も「バトル」として、見ていて微笑ましいような光景に変わる。 人は今まで…

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12日前
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偏質的俳句鑑賞-第三百五十回 春眠の底に刃物を逆立てる-桂信子『新緑』

春眠とは物質ではない。どちらかといえば場所のようなものだ その底辺に「刃物を逆立てる」。 突き刺すのかもしれない。 まるで大きな生物の背中に刺すように。 春眠は深い…

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13日前
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偏質的俳句鑑賞-第三百四十九回 着ぶくれてもうババアだかジジイだか-笠原真枝『俳句 2024年5月号』

冬の句だが今月号なので紹介する。 着ぶくれると人の顔が見えなくなるし、体格もわかりにくくなる。 だが、老いていることはわかる。  「ジジイ」とか「ババア」とかの言…

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2週間前
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偏質的俳句鑑賞-第三百四十八回 太陽を必ず畫く子山笑う-高田風人子『ホトトギス同人句集』

幼稚園とか小学校の絵にはオレンジ色、赤色の太陽がほとんど描いてある気がする。 「太陽を必ず畫く子」とはどういう子供だろうか。自分の子供だろうか。 その子が絵を描い…

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2週間前
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偏質的俳句鑑賞-第三百六十三回 母の日が母の日傘の中にある-有馬朗人『俳句いまむかしふたたび』

あと3日で母の日だ。
作者は「母の日傘」という思い出の象徴としてのもの中に面影を見ている。
ものだけで母への感情がありありと伝わって来るのが素晴らしい。
それこそ詩の強みだ。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百六十二回 こどもの日ひとりぼっちのアジア象-杉ひめか『まいにちの季語』

アジア象は基本的にどこの動物園でも人気だと思う。しかし、一人で飼われていることもあるかもしれない。
子供たちは楽しんでくれているかもしれないが、「ひとりぼっち」なのかもしれない。
しかも、「こどもの日」という日に限って休みだから家族で来る人も多いだろう。
そういう対比的な悲しさが象にはあるのかもしれない。
なぜ象がそんなにも人っぽく扱われるのかという疑問が湧いた。上野公園の花子のイメージだろうか。

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偏質的俳句鑑賞-第三百六十一回 東風(こち)吹きてサークル棟の窓きしむ-音羽紅子『俳句 2024年5月号』

なんかサークル棟って古い気がするどこの学校も。
そのあるあるが「東風」という新入生などの入ってくる季節を思わせる季語と噛み合ってサークルのガヤガヤした感じを思わせるという丁寧さもある。
あと、「窓」には「〇〇部」って書いてあったりするのでそういうことを思い出させる、さり気ない誘導でもあるのかもしれない。
この句はかなり学校の細部まで観察して書かれていてとても良い雰囲気だ。
次回も良ければ読んでくだ

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偏質的俳句鑑賞-第三百六十回 死の川の両岸現世鯉幟-沢木欣一『今日の俳句』

環境汚染が酷かったときの光景だろうか。
それとも、「三途の川」を思って詠んだのだろうか。
自分は前者だと思う。しかし、後者の解釈のほうが普遍的で更に詩的かもしれない。
どちらの川でも「両岸は現世」ということを提示されると「死と生」が明確に線引きされる。
そして「鯉幟」は確実に「生」の側にある。
それが端午の節句ということをありありと分からせる季語としての働きをする。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十九回 送ります手紙の中は初夏の風-竹津亜希『夏の名句と季語』

手紙なんて久しく書いていない。しかし、わざわざ手紙を書いて送るという行為はどの時代も気持ちを伝える手段としてはかなり高度だと思う。
手紙には本文を書いた紙以外は入っていない。しかし、作者は「初夏の風」というものに託した気持ちを一緒に送ったのだろう。
まるで手紙が開けられた瞬間に風が吹くかのような表現がおしゃれだ。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十八回 後ろから春一番の羽交締め-岩淵喜代子『俳句 2024年5月号』

もう夏に近いけれども紹介したい。
「春一番」が後ろから来て、覆われる。それを「羽交い締め」と表現したところが面白い。
風は人を掴むことはない。しかし、春一番という名付けられたことによって人のようになるのかもしれない。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十七回 春風や寝癖ゆたかに私の子-小林鮎美『俳句 2024年5月号』

「寝癖」がついているのも「私の子」というくくりの中ではかわいらしいポイントでしかない。
俳句ではよく「吾子」という言葉が使われる。しかし、「私の子」という着地はあえて選ばれたのだろう。
この句の場合は「吾子」という言葉のイメージを使っては成り立たないと思う。
言葉の与える印象の表現の違いというものを意識して、それが成功している。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十六回 ゴールデンウィークジャングルジムに十連休-荷見杉雪『まいにちの季語』

今、公園とかのジャングルジムはどんな感じだろうか。
まだ、人気だろうか。めちゃめちゃ子供がたかっていた記憶がある。自分もたかっていた。
のんびりとした公園の雰囲気と「十連休」という言葉が全体のゆったりとしたリズムと合わさってなかなか面白い味になっている。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十五回 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう-折笠美秋

折笠美秋はALSを発症し、その病床において眼球の動作によるコミュニケーションにおいて詠んだ句がこれだ。
これは妻に宛てた作品だと言われている。
「蝶に乗」るという現実離れした表現が、妻への思いと重なる。
自身は動けない環境において、「蝶に乗」るというイメージを出してくるのは心に来る。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十四回 紙の桜黒人悲歌は地に沈む-西東三鬼『西東三鬼全句集』

「紙の桜」とは多分、劇で上から降ってくる小道具だろう。
だから実質季語ではない。
「黒人悲歌」といえばブルースなどがある。それが「地に沈む」ような声の深さと歴史的な重みを持って劇場に流れる。
そして、小道具の桜が舞う中で作者は曲の感動に浸っている。
ここで季語は関係ない。劇という人工的なものの中にあるからだ。
しかし、劇をこのように描写したのはとても面白い。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十三回 尋常の死も命がけ春疾風-正木ゆう子『読む力』

「尋常の死」は多分老衰とかの死で、闘病とかの末というわけではなさそうだ。
しかし、人間はいずれ全員亡くなる。その「死」という行為はどれも命がけの行為でそこに優劣などはない。
その亡くなった人々をどこか遠いところへ「春疾風」が運んでいく感じがする。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十二回 夜桜の深みに入りて行方知れず-齋藤愼爾『齋藤愼爾句集』

夜桜は妖しいオーラをまとって立っている。
そのオーラは周りの空気も巻き込んで「深み」になる。それに近づいていってしまえばどこか現実ではないところへ誘われてしまう。
「行方知れず」になる。
誰が行方知れずになるのだろうか。作者本人が消えてしまうような不穏さを持って「夜桜」の季語としての存在感が際立つ。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十一回 どらとらのらみけや猫の恋バトル-太田正己『俳句いまむかしふたたび』

リズムというか言葉の羅列の面白さを核に置いたいい作品だ。
あと、人間から見たら生存競争の本能も「バトル」として、見ていて微笑ましいような光景に変わる。
人は今までに出会った猫たちのイメージをこの詩の中に置いて恋模様を展開させる事ができる。性格まで見えてくるかのようだ。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百五十回 春眠の底に刃物を逆立てる-桂信子『新緑』

春眠とは物質ではない。どちらかといえば場所のようなものだ
その底辺に「刃物を逆立てる」。
突き刺すのかもしれない。
まるで大きな生物の背中に刺すように。
春眠は深いからこそ、気持ちが良いからこそ、恐ろしい。
恐ろしい春眠から逃れるために夢の中で「刃物を逆立てる」のだ。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百四十九回 着ぶくれてもうババアだかジジイだか-笠原真枝『俳句 2024年5月号』

冬の句だが今月号なので紹介する。
着ぶくれると人の顔が見えなくなるし、体格もわかりにくくなる。
だが、老いていることはわかる。 
「ジジイ」とか「ババア」とかの言い方は悪く聞こえるが、この句の中では「わからねぇやガハハ」という感じで蔑んでいる感じがない。ただただ、滑稽さに振っているからこそ成り立っている。
次回も良ければ読んでください。

偏質的俳句鑑賞-第三百四十八回 太陽を必ず畫く子山笑う-高田風人子『ホトトギス同人句集』

幼稚園とか小学校の絵にはオレンジ色、赤色の太陽がほとんど描いてある気がする。
「太陽を必ず畫く子」とはどういう子供だろうか。自分の子供だろうか。
その子が絵を描いているのを見ていたときの発見なのかもしれない。
「山笑う」という季語のはつらつとしたイメージ、芽吹くイメージも組み合わさってとても元気で良い。 
次回も良ければ読んでください。