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この、これ

これを書かなくて、今後大事なことは何も書けない気がするよ。 4日沖縄行って、一日置いて友達が一人暮らしをしている我が家に3日来て、翌日今の恋人と遊んで恋人になった。 中高時代、軽く言えば憧れまくった友達と、すごく自然に楽しんで、最高な3日間を過ごした。友達は失恋してから一か月が経とうとしているところだった。私は失恋したことがないからわからないかったけれど、一人になってから、あんなに失恋をネタにしつつ悲しみつつ朗らかに明るく面白く入れるのは、本当に彼女の才能なんだろう。話す

    • 漂う 恋 fwfw

      もう眠たくて、やらなきゃいけないことを放置している中だから、余剰リソースを超えて書いてることに罪悪感を感じ始めている頃なのですが、新しくURLが出来てしまったことだし、タイトルに負けた文章でも書いてみます。 ふと、昨日のこの時間にランニングをして、帰ってきてから作って食べた卵うどんの生姜の風味を思い出しました。 そして、この文章は後から何度も何かの感情をもって振り替えられることを思いました。それなら、もっと今の暮らしのディティールを書いて、この暮らしや感情に思いを馳せさせて

      • ドーパミンカルチャー

        現代人はもはや疲れ切って動き出す原動力はないものの、ドーパミン経済によってマリオネットのように動かされている。休日に携帯いじくって何時間も無駄にする。 少し変えているが、こういう趣旨のコメントを見た時、とてもハッとさせられた。ドーパミンカルチャーが問題視されているが、それはこの仕組みが上手くヒットしてしまうような社会情勢だからだと気付かされたのだ。 このコメントを見るまでの私は、現在のTikTokの流行りや、ReelやYouTube Shortsの流行りを、どこか現代人の

        • はなし

          発狂しそうな森の中で、静かに笑った者が一人だけいて、音もなくケタケタと笑っていた。 そのとき星は深い青色の夜空に丁寧に包まれていて、笑いの呼吸に呼応するように光を強めては弱め、木々も大枝を振ったりなんかして、二重奏に次ぐ三重奏、幾重に重なる演奏が広げられていた。 ぷっぷぷー、とトランペットの音が鳴った。 人は声をあげて笑った。

        この、これ

          切り株

          もう全部わたしがやる必要など残っていない。文の接続のおかしなこともどうだっていい。プライドもない。意地もない。昼も夜も朝もうまくこない。死もない。生もない。上っ面。うわっつらだけ。つかれた?静かな死。静かに死ぬ。石油のような堆積物が溜まる。自分がひどく不要に感じる。不要。不要だ。人数合わせ。不要。不要。不要。要らないよ。 本当にどうしようもない。諦め。諦め。諦め。 惨めもない。もうない!晴れている。くそだ。性別の既得権益。体格の既得権益。やめてくれ。逃避行なんて微塵も惹かれ

          ああ!

          胸が張り裂けそうだ。 この地と大好きな人と、ここでの私とあり得た未来に永遠にさようならなんて。 認める人もいてくれることがまた、なんだか、怖いんだ 人はみんな違う、正義と正義が興亜する、人は自分に人生しか生きられない

          リズム遊び

          ゆふいんの森、そしたらセカンド、パラダイスワックス、ごめんねドルガン。 さいたまと紅生姜、アスパラガス祈祷、めちゃめちゃオルガン。 ガパオチンギスカン。最初の一つだけ取っておいてください。 気を付けて帰って。愛していること、全てだったこと、なによりも優先されたこと、望まされていたこと、クソみたいだったあの場所、記憶、さようならをした、まだここにずっとあった。何べんだって蘇る。だってぼくらはスーパー男児、ええ、そうです。だってだって理由もないただそう信じているので。ええ、そうで

          リズム遊び

          言葉遊びについて

          私は言葉遊びが好きだ。 あるいは、メタファーに富んだ事柄。 意味を抜き取って、外枠で会話すること。 物事の本質と本質を思わぬところで照合させること。 不意を突いて出た言葉の持つ意味に、再び驚かされること。 抽象化された比較対象が同一であること。 トポロジー。 こんな文章は無用だ。私的な娯楽だ。 日記にでも書いておけ。 それでも公開してしまうのは、同じ魂を探している、センスのない面白くない人間だから。 私はどこまでいっても凡人なのだから。

          言葉遊びについて

          ?面白い人

          面白い人、面白くない人という言葉を使っている時点でだいぶセンスない。 そういうことを言う人の特徴に以下の3つを挙げる。 傍観主義 「面白い人」というテーマで人を論じる行為は、人の性格を自身の尺度で測ることである。 そして往々にして、面白い人と定義された人は、その判断する人が持つ規範から逸脱した行為をしているというただその一点により判断されている。 つまり、自分はやろうと思えばやれるが価値を感じないことをしている人は「面白くない人」であり、自分はやろうと思ってもやれないが価

          ?面白い人

          さよならを言いかけて

          ハタと止まった。それには少し時期尚早だったかもしれない。 孤独に毒されて、げっそりとした顔で貝は出てきた。 よたよたと停まって、一拍おいて口を開いた(殻を開いた)。 「正解を教えてください」 それだけ言って、また黙った。その姿には力が籠っていた。怨念と言ってもいい。世界で一番正しい自分が見つけられなかった正しい答えを、ここにいる誰も持ち合わせてはいないという、諦念、見下し、集団に対する忌避。ぼっかり空いている心の穴に埋もれて、貝はじっと其処にいた。 「あるいは、地獄」

          さよならを言いかけて

          新聞、今の社会、国、ワタシ

          昨日、やっとnewyork timesを読めた。 ずっと大学図書館にあると知りながら手が伸びていなかったのだ。 その延長みたいなもので、車輪の下を一章読むついでに、今日も新聞を読んだわけなんだけれども、新聞の立ち読みコーナーにイケた人がいるのがなんだか羨望してしまって、その人が読んでいた新聞をさらおうと思った。 ny timesを読んでいると、なぜ新聞というものは毎日出され、図書館の人は毎日取り換えては並べることを繰り返しているのだろうと疑問に思った。そんなに大事なことが書

          新聞、今の社会、国、ワタシ

          今日

          友達の家言って映画見てコストコ行って桃鉄した。 一回の遊びをするのにかかる心理的ハードルが低い。低くなった。 何も生まなくても、それで良いと感じる。 と、絶妙にメタ認知してしまう癖、もう要らないのかもしれないね。

          自然の青さ、生き生きとした、緑、

          サカナクションを聴きながら、そんなことを考えていました。

          自然の青さ、生き生きとした、緑、

          人とわかり合う、一人の人とわかり合う

          一人の人とわかり合うというのは大変な経験であると思う。 それは、相手がした経験が自分を包括しているということだからだ。 強いやつ。 そういう話ができるのは、「強いやつ」だ。 強いやつと話をするには、自分も相当に強くなければいけない。 前は、プライドとか普通への反骨心でどうにかなったことも、そういう気持ちが霧散してしまった今、どうにかしてそういうモチベーションを上げていきたいな、と思った。 なにがきっかけでなにが変わるかはわかんない。 まさかりょとの会話でこう派生する

          人とわかり合う、一人の人とわかり合う

          余韻

          昨夜は一昨日の余韻に浸っていた 本当に会いたくて会いたくてしょうがなくて、こんな夜でも変わらずにLINEをしてくれる友のありがたさに思いを馳せるなどした。 家に面した通りに、少しにやりとしながら、こちらを向いてスピードを緩めながら停車するシーン。 車の青と軽の車両の形、後ろの赤の壁と運転席の彼女、差し込む日の光、周りの街路樹や公園の緑、青空、雲。 いい絵だった。 ある車の音がして、私は見ずともなんだか確信があった。 目が合って、私は助手席に駆け込んだ。 5/11

          りょ

          、すけ、は、尖っていたいという思想を抱えて、どこか寂しいような雰囲気を湛えて、孤独ではなさそうで、器用に生きてるのかどうなのか私には判別つかなくて、苦手と思われたりしていて、その実ソフトというかマイルドというか、じゃらじゃらいかつい人ではなくて、声が優しくて正気ででもやっぱり目はずっとパキッていて少し人間じゃないみたいで捉えどころがないようででも深い人間性を持っているわけではなさそうで、どこか似ていてふらふらしているけれどもまともで、気分屋だけど根はきちんとどこかにある、不思