?面白い人

面白い人、面白くない人という言葉を使っている時点でだいぶセンスない。
そういうことを言う人の特徴に以下の3つを挙げる。

傍観主義

「面白い人」というテーマで人を論じる行為は、人の性格を自身の尺度で測ることである。
そして往々にして、面白い人と定義された人は、その判断する人が持つ規範から逸脱した行為をしているというただその一点により判断されている。
つまり、自分はやろうと思えばやれるが価値を感じないことをしている人は「面白くない人」であり、自分はやろうと思ってもやれないが価値を感じていることをしている人が「面白い人」なのである。
この時点で自分は手を動かしていないことが明白だ。
人を面白の可否で判断する人は、ただ座って話を聞いているだけの人なのである。人を小説か何かだと思っている。そしてそれは自分にも跳ね返っている。人は物語の対象ではなく作用する源なのだということを本質的にまるでわかっていない。手を叩いて面白がっているだけの観客なのである。

面白いねと言われると喜ぶ

自分の価値基準のうち他人からの判断の比重が重すぎる。「面白い人だね」ということが褒め言葉だと思っているが故に、自分がそのように言われると喜ぶのであるが、それは自分の作り出したものに自信がないことの現れである。自分の存在自体を「面白い」と認めて欲しいと思っている精神性があり、そのような存在になるために文脈を無視し広く認められた出来物の表面上をなぞっては浅はかな解釈で取り込もうとする。
信念がないのにある振りをしている。
面白いと思わないのに目を滑らせながら頑張って古典を読んでいる。

中途半端に俯瞰している

人の話や行為を純粋に楽しまず「面白い」と意味付けをしているメタさはありつつ、自分独自の文脈で批判的に再解釈をすることがない。
裏表である都合の悪い負の事実には目を向けず、言語化できる才能もなく、ただ都合良く抽出された耳障りのいい言葉だけを切り取り、その人を過度に神格化する。そのくせその感動も束の間に次の興味に目移りする使い捨ての精神を持つ。自分の感動にも無責任で、永遠にないものを求めて人生を徘徊している。
そんな自分が大好きで、心に余裕のある素振りを見せるが、しかし意見を求められるとおし黙る軟弱な精神の持ち主。
メディアの作り上げた虚構の理想像を自身の作り上げた理想像と盲信している。

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