ドーパミンカルチャー

現代人はもはや疲れ切って動き出す原動力はないものの、ドーパミン経済によってマリオネットのように動かされている。休日に携帯いじくって何時間も無駄にする。

少し変えているが、こういう趣旨のコメントを見た時、とてもハッとさせられた。ドーパミンカルチャーが問題視されているが、それはこの仕組みが上手くヒットしてしまうような社会情勢だからだと気付かされたのだ。

このコメントを見るまでの私は、現在のTikTokの流行りや、ReelやYouTube Shortsの流行りを、どこか現代人の没落のように感じていた。しかしそれは、虐待をしてしまう大人が元虐待児であったように、ある種必然の出来事なのだ。
人々はあらゆることに疲弊し、手軽に得られるドーパミンによって表面的な活力を得ている。ついつい動画をスクロールしてしまうのは、その場の短期的な報酬を得ることに夢中になっている、だけでなく、文字通りその行為によって何か休息を自分に与えているのかもしれない。今の時代、なにもしないことというのを自分に許可するのは難しい。就活はどんどん低学年まで手が伸びたり、資格を取ることは当たり前となり、人に対する周囲の要求は高まっている。
要求の高まりはすなわち、なにかをやっていることを強制する圧力の高まりを指し、その規範は次第に自身のなかに内在化される。
人は一人のときも、なにかをやっていないことの罪悪感から逃げるように動画をスクロールする。この時人は、実際は本当の意味で休んではいないのではないか。休んだ結果のスクロールではなく、休みたいことと内在化された要求の狭間で延々と動画をめくっている。8月終盤のようにYouTubeと対峙している。
YouTubeは、ではエンタメではないのか。エンタメは人の人生を豊かにするものなのだとしたら、YouTubeも肯定されてよいもののはずなのに、人はそうは思っていない。昔よりも低いコストで簡単に自分をある程度満足さるものが出来た。かつてのエンタメのレベルに達していなくても、量は質を凌駕してしまう。
YouTubeを見る自分を肯定できないまま人はYouTubeを見る。人は理想の暮らしを送れないのは、理想の自分に対して恐れているからだ。かつての自分が失われてしまうことに対して、新しい自分の一面が現れることに対して、世界が変わってしまうことに対して。さようならとこんにちはが出来ないから。
人は完全になにかに納得することなんてできやしない。この世に正解も完璧も完全も、存在する状態と存在しない状態が重なっている。それでもなにかに納得したいなら、信じるしかない。存在するものは信じることができる。信じることは愚かさであり、賢さだ。
信じたい方向をなにか触れたような体験ができたのなら、それは人生の中で最高のことなんじゃないか。こっちの方が面白い気がする。そういう嗅覚。

本当は。本当は。全部本当だから。

この生活はこの高評価は全部本当。

楽しい。終わり。

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