新聞、今の社会、国、ワタシ

昨日、やっとnewyork timesを読めた。
ずっと大学図書館にあると知りながら手が伸びていなかったのだ。
その延長みたいなもので、車輪の下を一章読むついでに、今日も新聞を読んだわけなんだけれども、新聞の立ち読みコーナーにイケた人がいるのがなんだか羨望してしまって、その人が読んでいた新聞をさらおうと思った。

ny timesを読んでいると、なぜ新聞というものは毎日出され、図書館の人は毎日取り換えては並べることを繰り返しているのだろうと疑問に思った。そんなに大事なことが書いてあるのか、と。戦争や外交、経済の話ばかりで、テーマはもう決まっているらしい。毎日同じようなことの繰り返しなのに、なぜこんなにも書くことがあって、1部が高くて、そして読まれているのだろうと思った。そこでハタと気づいた。これは今世界で起こっていることなんだ。物語の話じゃない、昔の話でもない、今リアルタイムで、日々一刻と変わっていく社会を切り出した断面なんだ。世界を多次元関数として捉えたときの微分したそのココにいま私は生きているんだ。

それで、一旦例の日本語の新聞を読んだ。
日経だった。
日経を読んだ。

そこでも、さっき感じたことがありありとわかった。

日経新聞は、私を囲む社会の話をしていた。
日本の景気や、新技術や、外交やらは、実は私の生活に深く関わっていた。何かを買うときや制度を利用するときの背景がこの新聞では実に単純にしかし仔細に書かれていた。面白いと思った。初めて新聞に対し、読み物として以外に面白さを感じられた。xで見た情報も書かれていた。見ていない情報も書かれていた。ネットは情報が回るのが素早いが、しかし如何せんノイズが多い。ピュアな情報を得ようと思ったら、こうした伝統的なやり方が最善なのかもしれない。
親のように、基本新聞から情報を収集し、プラスでネットにしかない必要な情報を選択的に集めるのが良い方法だなと思った。


そもそも国立大学に通っていること、そしてその授業を受けているということは、だいぶ国に学ぶものを握られているってことだよな、と。大学も、今とこれからの日本に必要なものしか学ばせないに決まっている。軍事演習の授業が必修じゃないみたいに。
私を囲む、私が所属している社会について知らないと、無知のまま権力者の思う通りに操られるだけだ。私は弱い。社会的地位があるわけでもない。だから勉強をして、論理的思考力をつけて、既存の権力の座を狙いに行く必要がある、と言える。
お金がなくても、権力があればカメラを無償で手に入れられるかもしれない。お金はある種平等だ。権力がなくても、お金があればカメラを手に入れることができるからだ。
資本主義社会は平等な機会を人々に与えている。それと同時に不平等を生み出しているのは残念。
国は国を回すために国民を考える。私は国民でありながら、幸福を追求するいち人間なのだ。

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