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『仏』を信じるということ。
私は私が信じようとする『仏』を信じることができない。それは、迷いの自分の心が作った、自分にとって都合の良い『仏』だから。
何処かで『仏』を疑っているのだ。
私の心は周囲の環境や人間関係、健康状態で、千変万化してしまう。そんな移り変わる心で祈る『仏』も、その心に応じて変わって行ってしまうのではないか。
日ごろ、欠かさずお寺に参り、お寺の行事にも積極的に参加されていた檀家の方が、癌で亡くられた時
それでも、なお・・・
痛ましい事件が後を絶たない。事件の加害者は母親、中学生、40年余り連れ添った夫婦など様々である。
動機が明らかになるにつれ、思うことは、加害者が過ごした人生が、私の人生であったなら、私も同じ事件を起こしてしまうのではないかという恐ろしさである。
なぜなら、私自身も人を憎み、恨み、そして人からも同じように憎まれ、恨まれ、罵られた。
罪など犯さないと心に思ってはいても、何かのきっかけで、どんな惨
そばにいてくれる・・・
そばにいてくれる。1972年にフランク永井さんが歌った「おまえに」のフレーズ「そばにいてくれる だけでいい。黙っていても いいんだよ・・・」を思い起こします。
私が生まれてから、親兄弟、友人、同僚、恋人、妻、子供と、その時々に色々な人がそばにいて、安心を与えたくれました。
しかし、そんな人たちも、死別、不仲、退職、離婚、成人などの理由で、離れて行ってしまいます。
死ぬまで添い遂げようと思って
他力本願を感じとれれば・・・
一般的に他力本願は「自分の力(自力)でなく、他人の力(他力)によって望み(本願)をかなえようとすること」という意味で使わているようです。
他力本願と言っても、自分が他人に頼んだ場合は、自分の代わりということになるので間接的な自力になりそうです。
また、私だけかもしれませんが、自力優勝が無くなって相手が負けることで、優勝できる場合などは、心のどこかで相手の敗北を願っている自分がいるので、やはり自