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外道ということ

外道(げどう)広辞苑では、
①〔仏〕仏教以外の教え。また、その教えを奉ずる者。六師外道、九十五種の外道など。↔内道。
②真理にそむく説。邪説。また、それを説く者。
③災難をもたらすもの。悪魔。
④邪悪の相をあらわした仮面。
⑤他人をののしっていう語。「―畜生」
⑥釣りで、目的の種類と違って釣れた魚。

②~⑥の意味で使われていることが一般的ではないでしょうか。

①の意味で仏教徒以外の信仰を持った人に、「僕は仏教徒なので君は外道だな。」なんてことをいうと、その後、口を聴いてはくれなくなるでしょうし、最悪の場合、殴られてしまうほどの大変危険な言葉です。

浄土教では仏教を「聖道門」、「浄土門」という二つの「門(入出)」で分けて説明しています。

これは、仏教に二つの分類があるのではなく、仏教の最終ゴールである覚りに至る道程の違いを言っています。

「聖道門」は自らの努力で覚りを求めていく道であり、釈尊やその御弟子たちが出家をして求めていった、非常に厳しい道です。

日本の仏教宗派のでいえば、「法相宗」、「華厳宗」、「天台宗」、「真言宗」、「臨済宗」、「曹洞宗」、「日蓮宗」、「黄檗宗」の9宗派です。

しかし、釈尊の入滅後、1,500年(または2,000年)以降は、教えが説かれるだけで修行する者もなく、覚りを開く者のいない時期とされる末法に入ったため、自らの努力で覚りを求めていくことができないとされています。

浄土門は自らの努力では覚りに至ることができない我々の代わりに、法蔵菩薩が無限の努力をなされ、何としても我々を拯いたいという願いをおこされた道です。

日本の仏教宗派のでいえば、「浄土宗」、「浄土真宗」、「融通念仏宗」、「時宗」、の4宗派です。

自らの努力で覚りを求めていくことができずに、悲しみに沈む我々の迷いの心に、法蔵菩薩の願いが「南無阿弥陀仏」という言葉となって、『我々の口から称えてくれ』という「響き」として伝わってきます。

その「響き」は我々に、「信心」という気付きを与えるようです。

浄土門は「南無阿弥陀仏」を称えれば拯われるという、行いとしては非常に簡単であるということで易行道と言われれています。

しかし、この「南無阿弥陀仏」は我々が称える言葉であっても、我々の意識で称えようと思った言葉ではないとういうことです。

我々の意識の外から呼びかけられた「響き(言葉)」、称えずにはおれない働きです。

これが、浄土門は「難信」と言われる所以があるように思います。「難」は、人間が努力ればできるという意味での「難しい」ではなく、自分自身を自分で持ち上げることができないように、人間には絶対にできないことを表わしています。

自分自身では絶対にできないけれども、どこでどうなっているかわからいけれども、そうせずにおれない働きが「他力」、他力により拯われていくのが浄土門であり、反面、自らの努力「自力」で拯われていくのが聖道門です。

「聖道門」も「浄土門」も仏教の一面であることで言えば、どちらも外道ではなく「内道」と言えます。

しかし、親鸞聖人は自力で拯われようする「聖道門」も外道であると位置づけました。

「浄土門」の中でも、心を一つの対象に集中し、雑念を払い心を凝らして仏・浄土などを観察する行「定善」と、悪を止め善を修める行「散善」も外道と位置付けています。

これは、「定善」も「散善」も、「自力」の行であり、現実を生きる我々には、とてもできることではないとして外されたのでしょう。

そして驚くことに、「南無阿弥陀仏」を称えることも、その内面意識により、外道として位置付けされています。

それは、先にもお話しましたが、我々が称えた「南無阿弥陀仏」が我々の意識で称えようと思った言葉であれば「自力」であり「外道」として位置付けられ、称えてくれという「響き」となって伝わってきた言葉であれば「他力」であり「内道」として位置付けられます。

親鸞聖人は我々が真に拯われる道は「内道」であり、それは法蔵菩薩が「南無阿弥陀仏」となり、称えてくれという「響き」となって我々に伝わり、「信心」として受け止められた時、実現されると教えて下さっているのではないでしょうか。

愚かな我々は、そのように聴くとすぐに「信心」を求めたくなるのですが、親鸞聖人はご自身が体験された「三願転入」を説かれ、「信心」に至る道筋を我々に伝えてくれているように思います。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏



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