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『仏』を信じるということ。

私は私が信じようとする『仏』を信じることができない。それは、迷いの自分の心が作った、自分にとって都合の良い『仏』だから。

何処かで『仏』を疑っているのだ。

私の心は周囲の環境や人間関係、健康状態で、千変万化してしまう。そんな移り変わる心で祈る『仏』も、その心に応じて変わって行ってしまうのではないか。

日ごろ、欠かさずお寺に参り、お寺の行事にも積極的に参加されていた檀家の方が、癌で亡くられた時、ご家族に方が、「あれだけ寺に参って『仏』を供養していたのに、なんでこんな形で亡くなったんだ。」と、憤っていたとの話を聞いたことがある。

ここにも、私と同様、自分の希望をかなえてくれない『仏』は意味が無いという、自分が都合よく作り上げた『仏』を信じていたのではないか。

釈尊がご存命の時は、釈尊から直接教え受けられたことで、六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧)の実践が行われ、出家修行者の中には悟られ、『仏』を信じ『仏』になった方もおられたと、お経などに残っている。

現代は釈尊入滅から2000年以上が経ち、

  • ①劫濁(こうじょく)。時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。

  • ②見濁(けんじょく)。思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。

  • ③煩悩濁(ぼんのうじょく)。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)等の煩悩が盛んになること。

  • ④衆生濁(しゅじょうじょく)。衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。

  • ⑤命濁(みょうじょく)。衆生の寿命が次第に短くなること。

の五種の汚れが現れる(五濁悪世)末法の世と考えらている。(WikiArcより転載

教えだけが残り、その教えを行ずる者も、当然、悟る者もいない時代である。

言い換えれば、自分の力で六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧)を実践し、悟り、『仏』を信じ『仏』に成ることは、凡夫である私には不可能であるということだ。

しかし、私の心の奥底には、『仏』を信じ、往生したいという願がある。

自分の力では『仏』を信じることができない凡夫の私の願のために、法蔵菩薩が阿弥陀如来となり、念仏という言葉となって、『仏』を疑いなく信ずる心を与えて下さるという。

このお謂れが、浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)に説かれており、特に、法蔵菩薩が十報衆生を拯ために誓われた48の願が、大無量寿経に説かれ、その中で、第18願が本願中の本願とお示しになったのが、法然上人、親鸞聖人である。

自分の力で信じようとして信ずる心ではなく、阿弥陀如来の方からの呼びかけで賜った信ずる心であるので、疑いようがない。

何かおとぎ話のようだが、感動とか喜びとかは、理屈では計り知れないものである。

誰が奏でているのかわからない、素晴らしい音曲が気付かぬうちに聞こえて来た時、私は感動することがある。

真実に遇うとは、こういうことを言うのではなかろうか。

自分で聴こうとした音曲ではなく、偶然に聞こえて来た音曲は真に、阿弥陀如来の働きと同様な他力と言えるのではなかろうか。

確かに、いままでの話は、知識としては他力はこういうものだと理解できるが、では、実際、私の中で音曲と同じように、阿弥陀如来の働きと遇うことが起こりうるのだろうか。

苦しい現実に直面した時には、やはり、自分を苦しみから拯ってくれる『仏』を作ってしまうのが、現実の私なのである。

苦しい時、『仏』は近い存在となるが、苦しみが無くなれば、その『仏』は遠い存在、いや、必要なくなるという、苦楽の流転を繰り返す。

『仏』の存在に疑いがあれば、『仏』の智慧や慈悲を頂くことはできず、いつまでも、生死を流転し、身を焦がす苦悩を超えることはできない。

阿弥陀如来の働きと遇うために、何かしらの条件があり、私自身がその条件を満たさなればならないのなら、私は永遠に阿弥陀如来の働きと遇うことはできないだろう。

今の私にできることは、仏の法を聴いて、聴いて、聴きぬくことで、聞こえてくるものとのご縁を頂くしかない。

合掌



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