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仏法の聞き違い

西恩寺の池田勇諦師のご法話から。(58分頃からのお話の概略)

ある女性の方が母親を介護された中で、母親が無茶苦茶になり、女性自身もつい引きずりこまされて、無茶苦茶になってしまった。

無茶苦茶と無茶苦茶がぶつかり合い、ものすごい状態になった。

そういう自分を観て、「自分は長い間、仏法を聞いてきたと思っていたけど、何にも聞いていなかったんだなあと、しみじみと知らされた。」という告白があった。

この話は、ちょっと聞くと実に真摯な告白のように思わるれが、この女性は勘違いをしている。

何を勘違いしているか。この女性は母親が荒れ狂い暴れたとしても、それを冷静に受け止め、介護していけるような人間になることが、仏法を聞いたおかげであると思っている。

しかし、それとは反対に一緒になって怒り、荒れ狂っている自分を観ると、私は何も仏法を聞いていなかったと思っている。中身が違うのだ。

荒れ狂う問題ではなく、荒れ狂う自分、それが私でありましたいうところに立てないということが、この女性が、仏法を聞いていなかった証拠だ。

自分が自分でない者になろうとするなら、腹が立つときも笑わねばならない。

師は、自分が自分であることを明らかにすることが、仏法であると言われているのだろう。

そういえば、10年前に、暴言を何度も吐いたことが原因で、三下り半を突き付けられた時、彼女が別れ際に言った言葉が「仏教を勉強していた人なのに・・・」であった。

仏教を勉強していた人なのに、「こんな酷いことを言うなんて。」と言いたかったのだろう。

確かに当時の私は強いストレスがあり、周囲に当たり散らしていた。その行動が厭で、優しい人になりたい、思いやりのある人になりたい、妻子を大事にする人になりたいと思い、仏教書の内容を自慢げに語り、仏教を利用していた。

まさに、仏教を勉強すれば、自分でない自分なれるとの傲慢な態度が、人生を大きく躓かせた。

何かのきっかけ次第で、そのつもりはなくても、他者に対して酷い言葉を吐いてしまう私が、間違いなく今でも存在する。

仏法はその私を明らかにする教えであり、決してそのような私を否定し、優しく思いやりのある私に変えていく教えではないのであろう。

最後に師は、「自分が自分でない者になって拯われるのではなく、自分は自分であることを尽くして拯われていく」と話されている。

浄土真宗は自分を明らかにしていく教えであり、私はそのお育てのなかで気付かされている。

南無阿弥陀仏
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