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他力本願を感じとれれば・・・

一般的に他力本願は「自分の力(自力)でなく、他人の力(他力)によって望み(本願)をかなえようとすること」という意味で使わているようです。

他力本願と言っても、自分が他人に頼んだ場合は、自分の代わりということになるので間接的な自力になりそうです。

また、私だけかもしれませんが、自力優勝が無くなって相手が負けることで、優勝できる場合などは、心のどこかで相手の敗北を願っている自分がいるので、やはり自力といえるのではないでしょうか。

親鸞聖人の主著である顕浄土真実教行証文類(教行信証)の行巻に「言他力者如来本願力也。」(他力と言うは、如来の本願力なり。)と記されています。

どうも、一般的に使われている他力本願とは違うようです。

とは言っても、「如来の」とか言われると何やら、怪しげな宗教臭がして引いてしまう人もおられるようです。

如来が何者かは別として、「他力は如来の本願力」であると教えて頂いているので、ここで言われる本願力は、「あなたの力であなたの本当の願を実現することはできませんよ」と、言われている気がします。

また、願と言っても、私には「お金持ちになりたい」、「病気になりたくない」、「死にたくない」、「出世したい」等々、色々な願いがありますが、これらが本当の私の願なのか、わかりません。

自分の体を自分で持ち上げることができないように、私の力では願をかなえることはできないのでは、と考えてしまうことがあります。

本当の願もわからず迷っている、私のすがたを見抜いて、私に私の本当の願をわからせ実現させようと、願い、働いている力(他力)を感じとることができたとき、今の私はどうなるのでしょうか。



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