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【エッセイ】 人のネガティブに自分のポジティブをぶつけてはならない。

 人のネガティブな部分や思考、または発言というのは良くも悪くも結構、目にする。人は溜め込んだネガティブを吐き出すことで、完全な安定ではないしろ精神的に落ち着くと思う。

その吐き出し方とは人それぞれあって、シンプルに自分語りをする人がいれば、ポジティブな考えを自ら出して心を安定させようとする人もいる。逆に、自らネガティブに追い詰めることで死を回避したり(これは特殊だし、不思議。ドMかな?)と様々だ。

どんな方法であれ、本人の気持ちが楽になるのならそれが本人にとっての正解だし、それに対して他人がとやかく言うことではないのだ。

ネガティブに対する寄り添い方は凄く大事だ。
寄り添い方一つで簡単に崩壊する危険な橋である。

・・・

 ポジティブな人は、ネガティブを何度も乗り越えたスーパーマンが多いはずだ。ツラい経験をいくつも乗り越え、ポジティブでいることに価値を見い出し、余計な事を考えても何も解決しない。それならばドンと構えていた方が人生が豊かになると本能的に理解した人。

一度どん底に落ちてから這い上がってきたからこそ、ポジティブな人とはとても魅力的なものになるのだ。だが、それがネガティブの人に対しては裏目に出ることがある。

求めてもいないのに、ポジティブを振りかざしてくる人。

自分の中で発信する分には何も問題ないし、ポジティブな考え方とは誰かの救いになる事がある。
その発信した考えに共感して救いを求めてくる人に「大丈夫だよ」と声をかけるだけで相手の心は安らぐ。これはある。

だが、救いを求めてきていない人に対し、ネガティブな発言をしているからってだけで、自分のポジティブ思考を突然ぶつけてくる人は、完全に間違っている。それは救いではなく、ただのポジティブ拷問だ。善意のつもりなのだろうが、見事に仇となっている。


 ネガティブとは、電気も付けない上に、カーテンまで閉め切った四畳半の部屋の片隅で、体育座りをしている状態だ。
そこに突然ノックも無く、しかも土足のまま「助けに来たよ」とかなんとか言いながら笑顔で部屋に入ってこられたら、体育座りしている人は一体どう思うだろうか。


ただでさえ、ネガティブになっていない通常時でも部屋に勝手に入られたら怖いのに、だ。


 救いを求めていない人は、自分で回復する事ができる。
つまり、部屋から出る機会を伺っているだけだ。それには自分のタイミングがある。その時が来るまで、ただ静かに過ごしていたいだけなのだ。かと言って、黙っているのもツラいから部屋でバケツに向かってゲロを吐いているだけ。
そのゲロを、部屋は汚したくないからと外に放り投げてるだけ。
その外に放り投げられたものを、僕らはたまたま目にしているだけだ。

 もちろん、助けて欲しいと自分から声をかけられない人はたくさんいるだろう。
だからこそ「どうしたの?」って言葉があるんじゃないか。
それすっ飛ばして「あなたを助けにきた」「私なら助けられる」って・・・それは一体全体どういうことなんです?


 自分の中でポジティブを発信することと、誰かのネガティブに勝手に首を突っ込むのはあまりにも違いすぎるのだ。


 その境目を理解できていない人はよくいる。
ただ単に『優しい言葉をかければ正解』ではないし、それは優しさではない。
相手と同じ立場、同じ境遇、同じ目線になって、どう展開させていけばいいのか考えることだ。

 中には「私ならこうする」というマジで何の役にも立たないことを平気な顔して言う人がいるが「私なら」は私の中だけで留めておいた方がいい。なぜなら、こちらは貴方ではないから。

 ポジティブな思考を発信することは素晴らしいし、それによって救われる人もいるだろうが、あくまでも自分の中で、そして救いを求めてきた人だけに差し伸べるべきだ。


おしまいっ



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