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130. 同じ事業をやるなら、人間は自分が好きな事業に手を出すべきだ。〜大谷竹次郎〜

みなさんこんにちは。


今回は、映画・演劇の制作、興行、配給を手掛ける松竹を創業した実業家である大谷竹次郎さんの格言について紹介します。


大谷竹二郎とは

1877年に京都に父は相撲の興行士、母は売店の経営をしており、その双子の双生児の次男として生まれました。

幼少期は、決して裕福とは言えない家庭で、相撲興行により様々な場所を点々とする暮らしが続き、品物を持って場内を売り歩く仕事でした。

双子は、父と母が立派な劇場で働くのを嬉しく思い、
小学校に行く日よりも店を手伝う日の方が多くなったそうですが、
ただただ夢中で店を手伝っていたそうです。

そんな転々と暮らす貧しい日々が続きましたが、
1885年に祇園花見小路にできた祇園座の売り場の株を祖父が購入し、
一家でその仕事場で専念できるようになりました。

1890年1月の祇園館の開場興行が東京から九代目市川團十郎一派を招いたり、
大阪の初代中村鴈治郎との大舞台だったこともあり、
兄弟は働きながら見たこの舞台に衝撃を受け興行を志すようになったといいます。

1892年には父が新京極の東向座の売り場の権利を手に入れ、劇場のオーナーにもなり、
1895年には新京極の阪井座のオーナーにもなりました。

父はオーナーになっても興行に直接関わらず竹次郎さんを代理としました。

「竹次郎、わたしの代わりに阪井座の仕事場に座ってんか。来月から阪井座のことはすべてお前に任せるよ。いいな。」
と父に言われ、驚きで棒立ちになったそうです。

兄はこの頃、新京極の夷谷座の売り場の権利を持っていた白井亀吉の元で働いており、
松竹では竹次郎さんが興行界の第一線に立ったこの1895年を創業年としています。

1897年、兄が白井亀吉の次女と結婚したことで竹次郎が家督相続権を持ち、
徴兵で数ヶ月入隊している間は兄が代わりに阪井座の経営をしていました。

これが白井と大谷の協力事業の始まりだそうです。

1899年、阪井座を譲り受けるも老朽化で興行ができなかったため、
ちょうど売りに出ていた祇園館の建物を買収し、
歌舞伎座として翌年に開場しました。

1901年には常磐座が消失し父も亡くなり、
常磐座の再建に精力し1902年には明治座として開場しました。

この開場を祝う記事「松竹の新年」をきっかけに松竹合名会社という名称にしました。


同じ事業をやるなら、人間は自分が好きな事業に手を出すべきだ。

竹次郎さん兄弟は子どもの頃に見た舞台をきっかけに興行をしたいという夢を持ちました。

それからは家族の仕事も手伝い始め、事業も父から任されるようになっていきます。

転々と暮らす時期や建物が消失した時期に父も亡くなるなど、
様々な出来事がありつつも、やりたいことのために常に行動してきたことが伺えます。

兄は養子となり、異なる場所で働いている時期もありましたが、
お互いが奮起していることを胸に秘めて自身の事業を伸ばしてもいたんだと思います。

そのような違う場所で頑張っていてもお互いの背中を預けあえるような、同じ志を持つ、兄弟であり、相棒のような関係がとても羨ましいなとも思います。


最後に

今回は、映画・演劇の制作、興行、配給を手掛ける松竹を創業した実業家である大谷竹次郎さんの格言について紹介してきました。

兄弟であり、相棒のような関係が羨ましいなと思うと共に、
自分にも何でも話せる一緒に頑張れる仲間が周りにはたくさんいるなとも感じた格言でした。

自分が好きで、仲間がやりたい・喜ぶことをできる事業ならより一層楽しいんだろうなとも思いました。

竹次郎さん兄弟のように、違う場所でも背中を預けて共に頑張れるような仲間たちとこれからもさらに努力ができたらより楽しい未来が待ってるだろうなとも思うので、
仲間と努力することを楽しんでいきたいと思います。

これからの出会いもたくさんあると思うので、そんな出会いも探しつつ、
今できる最大限のことを自分もやっていこうと思います。


それではまたどこかで。

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